序
昨年の干支は戌。「これは飼犬?」と思うばかりの素っ頓狂なワンちゃん。今年の干支は亥。まるで、西洋の雑誌を切り抜いたようなワイルド・ボアでした。私のよく行くギャラリ/ブティックの歳暮に渡された色紙でした。作者は、勿論、井隼慶人氏。かと言えば、資料の送り状に付けられた、一目で判る《下仁田ねぎ》であったりしました。思わず笑ってしまいました。
井隼慶人氏は蝋防染技法を学生時代から、真面目に学びました。技法を学ぶ程、その制約にいらいらしました。技法に格闘すればする程、結果は思わぬことになってゆきました。ふと気がつけば、井隼氏は制約に親近感を感じてきました。井隼氏の言葉を借りますと、「光明か、と思いました。」制約を、一種の解放感に感じました。前に述べた通り、井隼氏は洒脱なものの捉え方が得意でした。それと、自然への観察の眼と温かさを加えれば、《光明を待つ人》と言わねばなりません。作風はより自由を増し、解放感に満ち満ちています。精神性も滲み出ています。
最後に、この展覧会を開きましたことに、幸せと感謝の意を表したいと思っております。
2019年3月
平面的だけではない染めの力—井隼慶人の「覗き込む眼」
昭和の田舎育ちの子供にとっては、当たり前の経験がある。それは、網を持って、蓮の葉影からヌマエビを狙って水中の藻に目を凝らしていると、視野が丸く切り取られ、見つめている眼の先が盛り上がってくるという経験だ。十分以上に大人になっても、日本の川より水量が多く、ゆったり流れるイギリスの小川でも、橋の上から繁茂する水中の藻の揺れを眺め入っている時に、同じ様に水面の凝縮と盛り上がりを感じた。それは、水という物質の性質なのかもしれないが、草むらのキリギリスを探していた時にも同じ感覚があったから、下向きの集中した凝視が作り出す感覚的増幅現象の一種だったのではないかと思う。それがふと我に還ると視野の楕円形と強く結びつけて構造化され、確認されるのだろう。結局、人間にとって空間体験は、視覚だけに限ってみても、主体の志向性に従って一定の必然的な歪みを生じるものなのだろう。表現上の約束事である、四角い平面の枠組みも、ましてや遠近法も、けっして空間の普遍的な体験ではないのだ。
自然をこよなく愛し、いつも小さな命の営みに目を向けてきた井隼慶人の作品には、実は、池や小川や、そこに生きる水生植物と魚や虫を題材にした作品が目につく。その種の主題には、その造形にここで言う覗き込む眼の凸レンズ状の空間効果がしっかり活かされている。そして、その空間ロジックの鮮明さで、他のタイプの作品に比べて、見る人の目を引く特別な力を持っているように思われる。1997年の《The sea at night》のように、海の流れるリズムを持ちながらも漠と広がった全体空間を作っている作品であっても、烏賊の群れのところだけには、トロっと盛り上がる空間があり、この覗き込む眼の凝縮が画面の重要なメリハリになっている。
日本では、染めが絵画を追うように展開していくことは当たり前のことになっているので、方形画面が前提になるとはいえ、そこでは、それが布という質感を絶対に排除できないゆえに、結局、(絵画とは異なって)遠近法的に奥行きに向かって穴を穿つことは難しい。このため、平面を強く意識した構成で、染料の発色の明るさ、鮮やかさの魅力に訴える「絵画」を目指すことになる。この場合、形象に浮遊感を与えて、空間性を暗示させるというやり方が大半になる。井隼の作品にも、もちろん、そうした方向で作られたたっぷりと豊かな魅力的な作品がある。
その一方で、そうした伝統に飽き足りないところを感じたのか、若い頃にも、彼は、魚眼レンズ的視点や極端な俯瞰法を用いた試みも積極的に行ってきた。それらは、確かに斬新な視点を産み出しているが、結局遠近法の一種に止まる。これに対し、2007年の「四季」をテーマとした楕円形画面の連作の頃から、特に意識して用いられるようになった彼の覗き込む眼は、文字通り、自然と親しく戯れ、小さなものを凝視する自身の体験から、自然に導き出された、対象と空間の捉え方だと言うことができる。比較的調和的で穏やかな色彩を用いることが多い井隼にとって、それが、染め色だけのことではなく、形と空間のロジックとなって、作者のものの見方を端的かつ生き生きと伝える手段となっているのだ。
それが、近年作では、その空間構造を基盤としながら、染め色の対比が一段と鮮やかさを増している。2018年の日本新工芸展の《夏のなごり》では、枯れ色を敢えて黄色に生かして、暑熱に耐え残る植物(こちらに盛り上がって立っている!)との対比となって見事に結実している。
時の推移にも鋭敏なこの作家が、この覗き込む眼による小さな命のコレクションをさらに積み重ね、広げていかれることを願うものである。