数寄と粋


木村 宗慎 (茶道家)

 粋と書いて“いき”か“すい”か。この違いを意識して小文を、と依頼されたときから、難しい題に少々苦しめられた。まず第一に、そんなこと理屈をこねて説明すること自体が野暮の骨頂になりはしないか、と危惧したのである。もちろん、見事に書きおおせる人もいるだろう。とは言え、こちら、もともとが四国の田舎者。その上、故郷喪失者のように京都と東京を往復しながら、やっとの思いで見よう見まねの茶の湯稼業。この様な両都の深いところに関わることへの言及は、まずもってままならない…と怯えたのである。
 ただ、これもせっかく機会ではある。余所者ゆえの冷静な意見を求められたのだろうという思い込みと、我が身過ぎ世過ぎの生業である茶の湯のなかに、確かに“粋”の源泉が隠されている、とのわずかばかりの自負をよすがに話をすすめたい。
 
 茶の湯をあらわす言葉の一つに「数寄」がある。
 もともとは、とるに足らないものを集めてくる、との意である。単純な豪華絢爛さに飽いた人々が、わざに田舎家の風情をうつし取った空間を都市の真っ只中につくり上げ、ある種の貧乏ごっこのようなことをしながら、一服喫した。そうした「市中の山居」での交わりが、いわゆる“侘び数寄”であり、これが現在にいたる茶の湯の祖型である。ただし、この貧乏ごっこは、決して爛熟から生じた頽廃的なふるまいとして、安直に片づけられるものではない。
 “侘び”とは、応仁の乱で荒廃した京洛のがれきの中で、それでも美しさを求めた人々が切実に発明した新しい価値であったのではないか、と私は常々考えている。白木の掘っ立て小屋や、そこに張りまわされた無垢な幔幕は、色とりどりの豪奢で豊かな空間とは違った強さで、見る人の目に鮮やかに映ったことだろう。不足を苦とせず、余白ととらえて前向きに見つめること。もともとはネガティブな含意しかなかった“侘ぶ”という和歌の言葉は、茶の湯におけるもっともポジティブな感性に昇華した、もとい、そうせざるを得なかったのである。
 願っても叶えられない苛酷な状況だからこそ産み出された、粗相の美。わかりやすい豪華さに反抗しうる“侘び”という価値の発見は、眼の下剋上とも言うべき、身を切る様な塗炭の苦しみの果ての出来事だった。
 それゆえ、元来、侘び数寄には強い反骨が秘められている。でなければ、なんのために利休は死んだと言うのだろうか。「侘び」や「数寄」の価値を日本の伝統美などと奉り、綺麗ごとのみで解釈しようとすると、実に危うい。
 
 侘びとは何か?との問いに、“変化”である、と応えた人がいた。これも達見であると思う。利休の門下の武将茶人・古田織部は師から受けたもっとも大切な教えは「人ト違ッテスル」ことだと語ったという。これとても先ほどの話と同じで上っ面の個性などではなく、真似しよう、習おう、写そうと思って尚、はみ出してしまう自己の発見でなければつまらない。「形」の稽古に意味があるのは、そうした道すじへ人をいざなう効能があるからに他ならないだろう。かた破りであることと、形が無いのは違う。古典が真実の名作であればこそ、刃向かう自由は必然的に許される。なにせ、本物の伝統(ベーシック)は、常に新しいはずだから。
 
 言い換えれば、「不易流行」(『去来抄』より)である。漂白の旅の中で、この警句を吐き絞った松尾芭蕉は、『笈の小文』の中のなかで、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」とも語っている。
 何も、先賢の言葉を順番に引用して、もっともらしく文をかざりたい訳ではないが、まこと、芭蕉の言うとおり、日本人が長い時間をかけ表現し、伝え残そうとしてきたものごとの根は一つである。
 では、同じ根、とは何か。
 それは、どうしようもない日常や、誰にも受け入れてもらえる衣食住にまつわる豊かさ、はては分かり易さといった圧倒的なものごとに対する反骨に他ならない。
 「判官ひいき」の諺で代表される敗者への憐憫も、常ならぬ「やつし」た物事に対する愛惜も、「もののあわれ」を慈しむこころも同じこと。他にも例を挙げれば数限りない。「大巧如拙(たいこうは せつのごとし)」との老子の語は禅僧にもよく引かれるし、そういえば「粋も過ぎれば野暮に映る」との句もある。「粗にして野だが卑ではない」も良い。
 
 あえて、侘びに身を「やつす」のが数寄である。
 侘び数寄であれ、俳諧の風雅であれ、背骨となって貫かれるのは、メジャーへの健気な“アンチ”の志でなければつまらない。
 
 ここで、遅まきながら、今回のようなテーマであれば触れずには措かれない書物に九鬼周三の『「いき」の構造』にある。
 まず、「粋」とは、辞書での一般的な定義として
 (1) 気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること。また、そのさま。「—な姿」「—な柄」「—な店」⇔野暮 (やぼ) 。
 (2) 人情の機微、特に男女関係についてよく理解していること。また、そのさま。「—な計らい」⇔野暮。
 (3)花柳界の事情に通じていること。また、花柳界。「—筋」⇔野暮。(一)、気性、態度、身なりが垢ぬけしていて張りがあり、さっぱりとしていて自然な色気の感じられること、とある。(『大辞泉』より)
 これを九鬼は、その著書の中で以下のように述べている。
 「いき」とは、まず第一に、異性に対する「媚態」(男に媚びる女のなまめかしい態度)、第二に「意気地」、つまり江戸っ子の持つ気概性を示し、第三に運命に対して執着を持たず、無関心でいること、「諦め」を表す。その諦めの境地に達するには、瀟洒たる心持ちで、垢抜けしていなくてはならない。
 九鬼によれば「いき」とは、「垢抜け(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」と定義されている。
 私はここに、「美しさを求めること(審美)」を加えたい。
 現代風の一言で片づけるなら、要は美意識の問題ということになるだろう。「こんなことしては、不細工だ、恰好悪い」とこだわりを持つこと。傍目にどう映ろうとも、わが身の中にある小さな種を大切に育てていけば良い。それでしか自分なりの美意識が磨くことは出来ず、時に、人生を掛けた決断が、粋か野暮か問われることもある。
 数寄も粋もただ表面に見える相かたちをのみを評価するのではない。
 
 粋の語源は、意気である。九鬼の例によっても、侘び数寄にも通じるところがあること、お分かりいただけると思う。
 粋であれ、数寄であれ、思えば、美しさなどという、食っていくために必要とも思われない、どうしようもないものに心惹かれる人たちは皆、まっとうな世間からみればはぐれものである。なにせ功利では収まりがつかない人種なのだから厄介だ。
 しかし、それゆえに美を求める心は、人がただの動物でないことを示すなによりの矜持でもある。
 
 関西、なかんづく京都の街では、一般に、「粋」と書いて「すい」と読ませることが多いように思う。江戸と京、一文字の読み違えに、ちょっとした美意識の違いが垣間見えて面白い。あくまで勝手な私見だけれど、「いき」に付く褒め言葉は「鯔背(いなせ)」、「すい」には「はんなり」ではないかと思っている。「はんなり」は「花なり」の謂である。鯔背でいきな立ち姿、はんなりしてすいな振る舞い、どちらも、見た目の恰好に留まらず、人となりそのものに関わっている。
 
 茶の湯の場合、それは数寄の現場で取り合わされる道具の好みに、東西の違いとなって反映されることが多かった。
 例えば、待合などに掛けられる絵の掛物は、京都では、円山応挙や松村呉春に代表される四条派の絵師たちが描いた余白の多い、淡彩の“軽い”掛物が好まれる。お江戸、というよりは東京では(紹介する傾向はおもに近代以降のものであるため)、琳派の鮮やかで洗練された画幅が好まれ、時には仏教美術も登場する。蛇足ながら、文人趣味が流行し、町人層に独自の気風を持った碩学の大かった大阪では、これに、蕪村などの南画を好む傾向が別にある。
 本席の掛物には、西では大徳寺に中心した高僧の墨跡が、東では筆跡纏綿、料紙の装飾端麗な古筆切が好まれるように思う。
 共通するのは、狩野派に代表される御用絵師の入念な“固い”ものは敬遠されがちである、ということ。無論それも使う人の力量しだいではあるけれど、それほどの格を備えた人は、ざらにはいない。
 ようは、余白の奥行きを重視する西の取り合わせに対し、見た目のいさぎよい美しさを求める東のしつらえ、といったところ。
 また、道具を褒めるときの言葉に「手が切れそうな…」という言い回しがある。これなど、それこそ江戸の「いき」を象徴するように思うけれど、むしろ上方の数寄者からよく耳にする。
 結局、どちらが上といった話ではなくて、それぞれの街の風土に育まれた好みの違い、ということに過ぎない。
 
 上方にいると、お江戸の粋[iki]よりも、洛中の粋[sui]のほうが上座でより価値が高いような言いぐさを耳にする。
 でも決してそんなことは無いはずだ。
 桜の花を案ずれば、答えは明確である。花のみが鮮やかに咲き誇り、パッといさぎよく散るソメイヨシノの花も、深い山中に緑の葉とともに咲く山桜の花も、どちらが強く、またどちらが美しいのかなど、決められたものではない。
 処とひとが変われば、まったく逆に言う人もいるだろう。
 
 お江戸の粋[iki]は外に張るもの。
 京洛の粋[sui]は内に深めるもの。
 
 どちらにしても、他人の言に左右されず、自分の美意識を大切に守るがゆえの所産であるのは同じこと。わが身の意気地に殉じてしまう、阿呆の加減に変わりはない。
 
 そうした、他人にはどうしようもない“好き”が、“数寄”であり、それが高じれば粋[iki]にも粋[sui]にも転じるのだろう。
 
 —叶いたがるは悪し—
粋であろうと、侘びであろうと、気取るだけでは、味がない。
身を切る思いで作ること、選ぶこと。その先に答えはあるのだと思う。