俳句との連携を試みる染の視覚的展開を祝す
昨年清流会から「俳句からの創造、染と書」という展覧会が企画されていると聞いて、咄嗟に「さもありなん。やはりここまで来たのだ。」と思った。
というのは、さして染織や工芸のことを勉強してこなかった私ではあったが、かって『佐野猛夫蠟染作品』(ふたば書房、一九九一年)という本に「自然を見つめることの意義を深めた佐野猛夫の染」という一文を書いた時、佐野猛夫(一九一三、守山市〜京都市、九五)は先輩に当たる小合友之助(一八九八、京都市〜京都市、一九六六)や稲垣稔次郎(一九〇二、京都市〜京都市、六三)に較べると、より絵画的になっていて、蝋染とか型染とかの染色作品であることをあまり感じさせないと思ったことがあった。そしてそう見てその後の染織の展開を見てみると、染織という意識を一方で強く育みながらも、染織は一方で絵画的になって幅広く展開しているように殊更に思った次第であったが、ここに至って「染と俳句」の展覧会が企画されていると聞いて、それが実証されたように思われたからである。
何故なら、この俳句と絵画の関係には歴史があって、京都の近代日本画史を見てみても、竹内栖鳳(一八六四、京都〜京都市、一九四二)が俳句と絵画は同源であると説く俳画同源説を説き、自らも絵に俳句を添えた作品を制作する一方、門人たちにも俳句を行うように勧め、その画塾竹杖会から小野竹喬(一八八九、笠岡市〜京都市、一九七九)や池田遙邨(一八九五、倉敷市〜京都市、一九八八)が出て、竹喬は「奥の細道句抄絵(10点)」、遙邨は「山頭火句抄絵シリーズ」をそれぞれ晩年に描いた。それなのに現今の日本画界を探ってみても、俳句に興味をもつ人はあまり見当たらなくなっているようなので、もうこの嗜好は美術界では終わりになったのかと思っていたところ、ここに染と俳句が取り上げられるに至った。それで先に述べた染織の絵画化ということと相まって、「さもありなん。」と思ったのである。
言うなれば、近代絵画の伝統の一つは大袈裟に言えば、染に引き継がれているということであり、逆に言えば、染はそれ程に多様な展開をなしつつあるということになろうか。
思えばこの俳句と美術との関係は、ひとり栖鳳ばかりでは勿論ない。近代日本洋画の基礎を築いたといえる浅井忠(一八五六、佐倉〜京都市、一九〇七)も、滞欧中(一九〇〇〜〇二)には巴会に参加するなどして盛んに俳句を制作したし、遡っては与謝蕪村(一七一六、大坂・都島〜京都、八四)が俳画と言われるものを描き、門人の高井几董(一七四一、京都〜京都、八九)に当てた手紙に「はいかい物之草画」に自信を示して、《花見又平自画賛》(紙本墨画淡彩、軸、逸翁美術館蔵)のような傑作を遺した。そこには「みやこの花のちりかかるは光信が胡粉の剥落したるさまなれ 又平に逢ふや御室の花ざかり」(句意は、土佐光信の絵のように格調正しい都の桜とちがって、この御室の花盛りに来てみたら、浮世又平そっくりの飄々たる親爺に逢った。暉峻康隆校注『蕪村集/一茶集』日本古典文学大系による)とあって、絵と俳句、それに書は誠にぴったりと言いたいほどに合っている。
ところで「ぴったり」などと言うと、今度の展観を見て句を詠んで、こちらが生むイメージと作品が示す視覚的世界とがぴったりなものと、ややかけ離れているものとがあるようであるが、それはその後の俳画史を見ても同様のようで、例えば種田山頭火(一八八二、防府市〜松山市、一九三九)の「分け入っても分け入っても青い山」を選んだ中井貞次さんの藍を中心とした作品は、連山の奥まりも見えて解り易い。対して坪内稔典の「多分だが磯巾着は義理堅い」を選んだ田島征彦さんの青をバックにした黄色と白の線的人影表現は、分かったような解らないような感じに見える。「多分だが」とか「義理堅い」とかをイメージ化するのは難しいことで、とてもぴったりなどとはゆかないのだろう。また上田日差子の「仮の世に色あらばこの桜貝」を選んだ本間晴子さんの散在するバラスに囲まれた枠の中の五本線という表現は、抽象的でそれこそさまざまなイメージを生んでゆく。従って申すまでもなく「ぴったり」が良いなどとは、ゆめ申せないことは、ここでも知らされるということになる。
なおこのような内容のこととは別のことであるが、選ばれた句の作者をみてみると、複数以上は楠本憲吉(一九二一、大阪市〜東京都、八八)、鈴木明(一九三五、東京都〜)、種田山頭火、松尾芭蕉(一六四四、伊賀〜大坂、九四)、与謝蕪村で、楠本が2作・鈴木が5作の他はみな共に4作だったことがわかるけれど、これについて申すと山頭火・蕪村・芭蕉が多かったのは、さすが伝統という感じがするとまずは言いたい。そして鈴木明が多かったことについては、シュール的と言いたいこの種の傾向はいまだに意外と人気があるのだということを、あらためて知らされたと言いたいが、それを選んだ髙谷光雄さんなどの作品が、いずれもどことなく解り易く思われたことをここに付言しておきたい。