人の姿を染めるということ


深萱 真穂 (染・清流館キュレーター)

 「染・清流展」は今年で第22回を数えます。染色芸術の発展を目指して1991年に創設された展覧会で、当初は「パネル形式の染色作品に限定した展覧会」(「第1回染・清流展」図録、木村重信氏の序文より)としてスタートしました。パネル形式とは、作品として染めた布を、合板や角材で仕立てた堅固な背板に弛みなく張り付け、キャンバスに描いた絵画のように平面的な作品として提示するあり方です。
 ご存じのように、日本の染色は和装とともに発展しました。染める行為は、着物や帯、風呂敷や寝具など用途のある物を制作するうえでの一工程でした。一方、パネル形式には鑑賞する以外の用途はありません。日常的な用途を考慮に入れず、純粋に目で見るためだけの作品として制作される点が、パネル形式の染色作品の大きな特徴です。
 パネル形式の染色作品には日常的な用途がありませんから、展覧会場以外で目にする機会は必ずしも多くないかもしれません。「パネル形式」という言葉も普段あまり使われませんから、「染・清流展にはどんな作品が展示されているのですか?」などと尋ねられると、どう説明するか苦心することもあります。簡単に言えば「絵画と同様の平面的な染色作品」でしょうか。ちなみに今回はパネル形式以外にも、屏風形式の作品や、壁掛け状の柔軟な染色作品、繊維素材を使ったファイバー・アートの作品が出品されていますし、過去の染・清流展には着物が展示されたこともありました。
 パネル形式が生まれた背景には、染色が伝統的な工芸から美術へと歩み出そうとする時代の流れがありました。和装とともに発展した染色の業界では分業化が進み、染める図案を描く人と、実際に染の工程を担う人が別々であることが当たり前でした。図案の作成に高名な日本画家が起用される場合もあり、完成した反物はそうした画家の名前や、制作の全体を取り仕切った大店の当主の名前を冠して販売されました。染の工程を担った職人の名前が表に出ることはなかったのです。
 そうした分業化した業態を離れて、図案も染の工程も自分で手掛け、自分の名前で作品を発表する染色作家が現れます。業界に根強い身分の上下に対するアンチテーゼでもありました。もちろん染色作家といえども、着物や帯を染める際には、購買者の好みを考慮しなければなかなか売れません。けれどもパネル形式は、そもそも購買者から求められるような用途が存在しないわけですから、作家は純粋に自己の表現を追究することができます。ちょうど、画家が自己の表現を求めてキャンバスに筆を振るうように。
 パネル形式は、伝統的な型染や絞り染の技法を使っていたとしても、伝統的な染め物とは異なる意識で制作された、ということを示す一種の記号の役割を果たしてきました。ある時期にはそれが行き過ぎて、「パネルにあらざれば作品にあらず」といった風潮まであったとも聞きます。
 同じような記号の役割を果たすものが他にもないだろうか、と考えて、ひとつの例として思い当たったのが、モチーフのなかの「人の姿」です。人の姿が染め抜かれた着物や帯を目にしたことがおありでしょうか? わたしは乏しい記憶のなかから見つけ出すことができず、なぜだろうかと考えました。着物の柄は、着る人を引き立てることが大切ですが、人の姿など染めてしまうと、そちらばかりへ目が向いて、着る人が埋没してしまうからだろうか。人間は、乳児のときから人の顔に鋭く反応するそうです。あるいは、染められた人物の念が着る人に乗り移りそうで忌避されるのか。邪悪な視線から身を護るための、目をモチーフにした装身具が中東などにあるのを思い出します。
 実際には、人の姿を染めた着物は実在します。かわいい童子や、習い事をする女性たち、能楽から題材を得た翁や媼の姿を染織品の図録に見出すことができました。けれども、いわゆる花鳥風月、植物や鳥や虫や魚や、あるいは山や川、そして御所車とか琴などに比べて、人の姿が圧倒的に少ないことはご了解いただけることでしょう。
 わたしが人の姿を記号として思い浮かべたのは、ある作品が念頭にあったからです。京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)の初代教員として染色を指導し、現在も活躍しているベテランの作家たちに多大な影響を与えた小合友之助(1898~1966年)の「綵工」(京都国立近代美術館所蔵、図版参照)です。井戸や桶、流路に囲まれて丸刈り頭の男が染の作業にいそしんでいます。男は小合本人で、植物や着衣の表現など見どころが多い額装の大作ですが、よもや着物に仕立てようという物好きはいないでしょう。つまり、用途を拒む図柄なのです。1937年の第1回新文展に出品した小合は、染色が伝統的な工芸から美術へと踏み出したことを宣言する思いだったのではないでしょうか。そこには、美術と工芸の間に設けられた格差への抵抗も含まれていたのかもしれません。第8回の帝展に第4部美術工芸が設置された1927年から、まだ10年しか過ぎていませんでした。
 さて、染・清流展には過去21回で総勢130名を超える作家に作品を出品していただきました。人の姿が作品に登場する作家も複数おられます。たとえば今回の出品作家のうち兼先恵子さんは源氏物語に想を得た連作でも知られます。重層的な画面に象徴的なモチーフを染める河田孝郎さん、寓話的な題材に社会的なメッセージを込める髙谷光雄さん、躍動する人物像と鮮烈な色彩がダイナミックな田島征彦さん。中国の少数民族の祭りなどに取材する加藤由起さん、神話や古典を情感豊かに染める三浦以左子さん、人物写真などに表れた時代の空気を切り取る室田泉さん。今を生きる人の存在を表現する井上由美さん、古い写真から近代と自己のかかわりを問う賀門利誓さん。長尾紀壽さんは昼寝するご自身の姿が、日下部雅生さんはご子息の姿が、むらたちひろさんはご友人の画像が、過去の作品に登場しましたが、今展はどうでしょうか。そして今回初出品の山下茜里さんによる巨大な目は、鑑賞者と作品の見る/見られる関係の逆転をも感じさせます。
 肖像画や自画像、人物像がごく普通にみられる油絵の世界に比べて、染色による人物表現はまだ多数派とは言いがたいようです。言い換えれば、人の姿も含めて、さまざまな題材や素材を扱った作品に出会っていただくことができるでしょう。作品に向かい合ったときに、なぜこのモチーフや形が選ばれたのか、作家がどのように対象をとらえ、どのような表現に仕上げているか、といった点に着目していただくのも、染・清流展をご覧いただくひとつの楽しみ方かもしれません。

 

 
 
 

小合友之助「綵工」
小合友之助「綵工」(京都国立近代美術館所蔵)。『~染の創作~小合友之助・稲垣稔次郎展』(京都文化博物館、1990年)から転載