中井貞次の人と作品
前館長、故・木村重信氏の『三浦景生の染め~白寿の軌跡』の「開催にあたって」を読んでいますと、「友禅染の田畑喜八、上野為二、森口華弘、型染の稲垣稔次郎の諸氏が重要無形文化財保持者に認定された。この4人と蠟染の小合友之助を創作染色の第一世代とするなら、三浦景生さんは彼らに続く第二世代である」と書いておられます。世代説には異論がありますが、これに従いましたら、中井氏は第三世代になります。略歴によりますと、少年の頃の氏は、戦中戦後にかけて中学校と高等学校を転々とされております。学制のことだけではありません。戦後の一時期、万事が変転としております。改革の嵐が、吹き荒れていました。そのお蔭と申しますか、帝展は日展に、新たに「新匠工芸展」、「日本伝統工芸展」「日本現代工芸美術展」「日本新工芸展」が次々と生まれました。海外には、ピカソ、マチス、ブラックを中心にアンフォルメル運動が興りました。アメリカでは復員兵を中心に、より前衛的な抽象表現主義が生まれました。特に工芸は分野の領域を超えた表現が流行しました。陶芸分野の「走泥社」も、それを影響に生まれました。そんな激動のさ中、いわばルネッサンス期に学生時代を過ごされたのは、氏にとってはラッキーなことでした。氏は稲垣稔次郎先生、中でも小合友之助先生、上野伊三郎、フェリス・リッチご夫妻に指導されました。氏は技術はともかく、図案の精神が教えられたことに、より幸せを感じました。
人はいくつもの高揚期があります。後に鳥瞰しますと、「あの時期は山だったのだろう」と思ったことがしばしばあります。氏にとっては最初の山は、昭和36(1961)年1月、京都市立美術大学在外研究員に、陶磁器専攻助手の小山喜平氏と共に承認されたことです。満29歳の若さでした。イランを中心に中東諸国、西はギリシャ、東はインドまで研修、資料収集の旅をされました。ステーションワゴンに日の丸を貼りつけた、約4万キロの旅でした。数十世紀に亘る文明に擦れた地域ですが、畳文化、空間文化の日本に住む氏は、すっかり魅了されました。多色の蠟染に、濃い線の単純なデザインは、乾燥と砂漠を表現されて、若い頭脳の強烈な印象を想わせます。カーペットの使用法にも、風土性を痛感しました。帰国後の昭和38(1963)年京都大丸百貨店等で《ドライブ40,000キロシルクロードの生活と美術展》(読売新聞社)を開催されていますが、これは直接の印象であって、間接の印象はじんわり、精神の深処にしみ込んで行きます。
第二の山は、昭和49年(1974)年の文化庁派遣芸術家在外研修員に選ばれたことです。イタリア、スペイン、フランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等々、一年をかけて巡りました。染織の産地、工房を訪問しました。最初、研修の積りでしたが、ヨーロッパ的なものに魅了されました。
第三の山は、国内でした。ヨーロッパ帰国直後の、昭和53(1978)年7月、鹿児島大学教育学部美術科に非常勤講師として赴任したことでした。夏期集中講義でしたが、早くから鹿児島の風土、琉球諸島の風土に心引かれました。故・藤慶之氏の「日本美術工芸」289(平成8年2月号)の文章を借りますと、
「中井貞次さんが〈沖縄〉にのめり込むようになって、早くも十年近い歳月が流れた。(中略)中井さんの心をとらえたのは、西表島に群生する怪奇な原生林。中でもサキシマスオウ(先島蘇芳)と呼ばれるアオギリ科の常緑大高木は、五メートルから十五メートルにも伸び、老樹になると根っこが地表に露出して扁平な板状の“板根(気根)”を見せている。密林地帯では酸素を吸収するのに適した板根になったのだそうだ」
平成3(1991)年の第23回日展出品の《原生雨林》(京都国立近代美術館蔵)は平成4年度芸術院賞を受賞しました。大屏風の作品《ECOLOGY》(平成7年・1995)(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)も、西表島の板根の風景に取材したものです。
更に、三つの他に、二つの山がありました。中国南部の風景〈桂林〉と河西回廊の砂漠の烽火台風景です。中国の風景はゆったりとして、安らぎを与える風景なのです。最近は日本の風景に回帰して、温かい風景が多くなっております。若き日の活力は失われてしまいますが、文人画のように洒脱の境地に遊ばれることを、ひそかに期待しております。
若い頃、氏の母堂の里である東近江の五個荘町の石馬寺に氏の作品を拝見しました。作品もさることながら、石馬寺から見降ろした東近江近辺の風景に感心してしまいました。さすが近江商人の根拠地として栄えた往時が偲ばれました。田に水が張られ、木立は黒々として、豊かな田園風景でした。