第20回記念 染・清流展によせて
中井 貞次
染めによる創作作品を志向する者が立ち寄ってほっと一息入れ、また、いろいろと制作への想いを回らせる思考的空間の役割をも果たしてくれているのが清流館なのかも知れない。その意味でも清流会は、いろんな面で限定された窮屈なものではなく、絶えず融通無碍のかたちが保たれ、どのような事にも対応し得るものであって欲しいと思う。
1990年、清流会は小澤淳二会長の宿望であった京都に染め専門の美術館設立をという構想のもとに結成、発足。1991年、京都市美術館において第1回染・清流展を実現、 第15回展は陶器二三雄氏の和洋折衷になるユニークな設計の清流館が開設され、爾来、独自の企画展を含め連打、着々と実績を積み上げ確たる存在となってきている。
京都は今年、いみじくも琳派400年の記念すべき年となり数々のイヴェントが展開されているが、わが国の染織史の中にあって私達の清流展が、染め創作の一つの鮮烈なエポックを形造るものになることを願う。
そのためには、京都固有の染織風土を踏まえ、作家個々が独自のイメージに基づく繊維素材を駆使した多様性に富んだ表現を目指すことにより、そこに出品者の揺るぎない染めによる創作の時空を確立することである。
あとは、国際展へのアプローチを期待し、今日まで清流館の企画運営等の推進に尽力を賜った小澤淳二会長、木村重信館長、山本六郎氏はじめスタッフの方々に深甚の敬意と感謝の意を表したい。
澁谷 和子
「室町で、折角仕事を構えて居るからには、染にスポットを当てたいと云ってる人─大松株式会社社長小澤淳二氏─が居る。対策を如何に?」山本六郎氏よりの声、振り返れば、1990年の事でした。暗い雲間に尖光を見た様な、あの時の希望の感慨を忘れる事はありません。
私共の要望は総て受けていただき具体化されました。大松別邸─往年は著名な要人方の談合の場として活躍したと云う─清流亭の名を移行して、清流会が立ち上がり、翌年には、第1回染・清流展(よろず宗旨引受処選抜展)が京都市美術館で開催、出品させていただきました。16回展より、世に唯一、室町に完成した染の美術館(清流館)が展覧会場となりました。そして早20回展を迎える今、此の場をお借りして、厚く厚くお礼申し上げ度い私です。小澤様を始め、運営に御尽力又御協力下さった内外の皆様、本当に有難うございました。恩恵に百%報いる為には唯々研鑽をと、改めて鞭打ち居ります。
同じ造形を志す中に、染の展覧会を観ない人がいます。「染て何?」世間でこんな問に出会う事は珍しくありません。然し日本の美の底に流れるのは、工芸と呼ばれる造形にあると確信しています。染の美への認識がこの国に充実する事が、広い地球への発信に繋がるのでは─とその任務を想います。
由来する会の名の活動がより大きな流れとなって末永く展開される事を願いながら─。
麻田 脩二
第1回清流展が開催されたのは24年前。私は、作品を発表しだしてから半世紀余りとなるが、その半分近くを毎回この会にお世話になり関わってきたことになる。
ついこの前のような気もするが、佐野先生をはじめ幾多の先輩、若い仲間、選考委員などでお世話になった評論家もつぎつぎと亡くし、気が付くと会の古手の一人となっており、24年の年月の長さを改めて感じる。十年一昔というが、24年というと二昔以上になり、その間社会にも大きな変化があって当然であろう。
染色に関係のある事に限っても、かつて京都の基幹産業の一つであった繊維業界もすっかり変わってしまった。清流館のある室町通を見ても、軒を連ねた繊維会社・問屋も殆ど見当たらず、新しくマンション、ホテルが建ち並び、荷物の上げ下しのトラックで通れないほどに活気のあった、かつての面影は全く感じられない。
そのような状況のなかで、ずっと会をはぐくみ育てていただいた小澤淳二会長に心からの敬意と感謝の意を表したい。
清流展はあくまで私設の会である。しかし第一回展の図録に“これは一企業の単なる事業としてではなく、長期に亘る社会的な文化事業と位置づけており”と会長が書いておられるように、今や一企業者の事業をはるかに超え、又清流館は世界に唯一の染色美術館としてはばたいており、より一層社会的・公共的な一面を強く持ってきた事は確かである。今回20回展を迎えるにあたり、これを機に清流展・清流館の益々の充実と発展を期待して止まない。
田島 征彦
乳児期の大病のために、手足の神経に異常があり、工芸的な方向へ進める身体ではなかった。「京都市立美大の染織科は、女ばかりだから男なら合格し易い。入学すれば自由に、好きなことができる」という、高校の美術の先生の勧めで、はいったものの、染織をしなければならなかった。退学しようとした時、「劇団美大アトリエ座舞台美術集団」の先輩たちと出遇って踏みとどまることになった。更に、稲垣稔次郎先生が、日本の絵本世界の創成期の代表的な作家、武井武雄と共同で豆本を出版するなど、ぼくを絵本の世界へ誘い込んでくれた。舞台美術の影響で、巨大な染色作品制作にしか興味がなかったため、若い後輩たちを集めて、京都市美術館の大陳列室を借りて、毎年、3メートル×7.5メートルの作品を出品しつづけた。そんな時、染・清流展への誘い掛けをもらった。あくまでも、アウトローとして、染色界の無頼派であったのに、優等生の仲間入りしては、今まで歩いてきた信念が壊れてしまう。グループの中の無頼漢の標本のような後輩を訪ねて相談したら、言下に「気にせんと出したらエエヤン」と、こともなげに言う。一大決心をして出品したら、グループの宣言文を書いた威勢の良い先輩まで、出品しているではないか!ウジウジと迷うことがバカらしくなった。まもなく染・清流館も出来て、清流展以外の展覧会へも出品した。中でも祇園祭展は思わぬ勉強ができ、「祇園祭・田島征服彦型染の世界」という画集まで出してもらえた。
染・清流展への参加は大袈裟でなくぼくの人生を変えてしまった。どう変ったかの答を出すのは、これからだと思っている。
森口 邦彦
1990年、清流会が発足して以来の20数年間には実にさまざまな出来事がありました。まさに世紀末であり、そして新世紀の胎動期であって、予想だにしなかった事が次々と起きた時期で、その変動の兆しが未だ見えるか見えないかの頃の門出であったように思います。
この間、20回におよぶ染・清流展の開催や、作品の収蔵、染・清流館の開設と、これまでに果して来た役割の大きさには、計り知れないものがあることを、ここで確かめ合いたいと思います。
その第一は、近世以後、世界でも稀な形で衣生活が充実する中、染織の技法は多岐にわたり興隆をして来ましたが、なぜかこの「染」は、それを現代の文化の地平でとらえ、時代の証言者としての作品収蔵を行い、展示展覧しようとする施設は全く見あたらなかったところに誕生したことです。
さらには、この活動の中心を京都に置いたことです。染の作家が京都に多く居たから、だけではないように思います。それは「染」が「京都」を象徴する何かを内包しているからではないでしょうか。
21世紀が充実を迎えるときにも京都と共に「染」が文化としてその存在意義を見出し続け、日本独特の領域のひとつとして世界に向って発信しつづけられるためにも、染・清流展、染・清流館の果す役割は大きく続いて行くことでしょう。
河田 孝郎
染・清流展20回24年の時の間に、美術は、絵画がイラストレーションに立体がフィギィアへと、先端の変様は時代のディジタル化と合いまってめまぐるしく移り行きつあります。この確とした実態感のない薄い造形物の氾濫は、むしろ、より工芸というものの方法論の慥かさに回帰することにつながる、と思いを馳せます。
勿論、それに対し何の約束・保障がある訳でなく、それは、それぞれ創作の中から生じたものを、世に問い、成果として得られてこそ初めて成り立ち存在します。
作り手の、時を駆使し切磋琢磨の痕跡が、リアルタイムに提示出来得る“場”を持てることの重要性は計り知れず、その分野の存続に決定的な影響を及ぼし、又、鑑賞者に提供される場の豊かさは何ものにも代え難いものでありましょう。
染という分野に限定された専門性の高い美術館というのは他に類を見ず、四半世紀にわたる時の淘汰を経た場は、文化としての立ち位置を鮮明にしました。
染めの先達方々・現作家諸氏・染を志す若い才能群の力の結集・成果を常設展覧出来得るこの分野の未来は、明るいと感じます。
清流会に、深い敬意と感謝の念を表します。