中野光雄作品集に寄せて
中野光雄さんから「京都芸大退官記念の作品集を作るので…」と聞き、何時会ってもニコニコと若々しい中野さんがそんな歳なのかと驚いたが、自分の歳を思い納得した。中野さんの作品を知ったのは私が美術館に入ってからだから1965年以降のことである。まだ京都芸大に奉職される以前から、毎年ギャラリー16で個展を開かれていたのを見たのだと思うが、それが何年の個展だったのかは定かでない。
1967年6月に、国立近代美術館京都分館は独立して京都国立近代美術館となった。学芸員は3名のままでの独立だったが、東京と同じように月刊の美術館ニュース『視る』を発行することになった。A4判4頁の体裁だが今泉篤男館長の発案で「くろにくる」欄を設けることになり、京都や大阪の画廊や美術館で開催された個展やグループ展を記録しようというのだった。その年の12月発行の第7号に中野光雄個展(10月30日〜11月5日 京都ギャラリー16)が取上げられ、私がレポートしている。
それを再録すると
「作者は型染めによる壁面のための作品で、新しい染めを追求している作家である。会場には等大の連続する大きなパネルが掛けられて見るものを囲む。円を基本とするそれらは紙の白さと墨とが美しい諧調をなし、パネルを単位とするシンメトリーによって豊かな広がりを示し、題名の示すように軽やかで楽しい響きを見せている。絵画的抽象に自己の道を求めることの多い現代の染め作家の中で、古くからの意匠の基本ともいうべき円によるこの作家の、伝統と現代がからみ合った世界は得がたいものである。」とある。
舌足らずな評だが、その頃の型染が花や風景をやや抽象化して表す作品が多かった中で、中野さんの円を基調とする作品が斬新に見えたのである。大体この頃に中野さんの制作の方向が掴まれたのではないかと思っている。
中野さんが、京都市立美術大学と同専攻科で染織を学んだのは1954年から60年までであるが、当時は、ろう纈の小合友之助、型染の稲垣稔次郎、二人の優れた染色家が指導に当っていた。二人の存在は大きく、彼らに学んだ人で未だにその影響から抜け出せない人も少なくない。中野さんも初期には例外ではなかったようである。私の知らない時期の作だが、この作品集に単色図版で掲載されている『風』は1963年の新匠会展に出品し、会友努力賞を受けた作品だが、稲垣の『虎図壁掛』(1960年)などを連想させる。そのことへの反省からか、間もなく中野さんの円シリーズが始まったのではなかったか。
1971年、京都国立近代美術館で「染織の新世代」展を企画し、担当したが、その展覧会に中野さんにも出品して貰った。この時作家個々に10メートルの壁面にと言うことでお願いしたが、中野さんは壁から床まで伸びる3メートルの布9枚、幅10メートルのW37のパターンと5つの箱』という大作を出品して驚かされた。さらに驚いたのは、それまで中野さんの作品は色彩が抑えられていたのに、その作品は実にカラフルで、色彩が躍っているような感を受けたのである。この頃から中野さんは型染だけでなく、ステンシルを用い、顔料で色を差すことを始めたようだ。『37のパターンと5つの箱』はステンシルで円の中の単純な模様を様々な色彩によって表すことにより、変化と豊かさを、また広がりを求めた作品なのであった。さらにその作品には、円やパターンによる構成という、それまでの中野さんの作品から、単純なパターンの色彩による変化を楽しむ、知的な操作とでも言うべき変身を感じさせられたことを想い出す。
これを一つの転機として、中野さんの以後の型染にステンシルを併用した、色彩豊かで、変化に富んだ制作が展開されてきた。身近かなマッチ棒を文様化した楽しい造形ののち、『カトマンズ幻想』シリーズが数年間続いている。
1977年、中野さんは京都市立芸術大学からアフガニスタンの伝統工芸の調査隊に参加してカトマンズを訪れた。丁度マッチ棒のシリーズを展開していた最中であった。そして4年後『カトマンズ幻想』が始まった。私はその地を知らないのだが、単純なパターンながらも色彩が溢れるように乱舞する中野さんの作品には、その地の様々な印象が如何に強かったかを物語っている。その強烈な印象を4年という歳月の問、じっくりと自己の間で熟成させ、醗酵させた確かさを、それらの作品に感じる。その後インド、そして度々のネパールへの旅の印象の作品化とともに、カトマンズの作品化は今も続いている。
ごく単純な、明快で、歯切れのよいパターンと明るい色彩、型の反復、反転などによって見る者の心をかき立てる中野さんの作品は定年退職などとは無関係に繰り広げられて行く筈である。