みずみずしい頑固さ
—中野光雄さんの世界—
今から30年近くも前のことになるだろうか。京都国立近代美術館が「染織の新世代」と銘うった、当時としては画期的ともいうべき企画展を聞いたことがある。「染織」といえば、一般にはまだ着物や帯のイメージしかなく、公募団体展に出品されるのも、せいぜい染めや織りの作品を扉風仕立てか額装にした大作どまり。ところが1970年前後から「ファイパー・ワーク(繊維造形)」なる新傾向の表現が登場。それまで染作品や織作品を創作するための素材(黒子)にすぎなかった布地や糸(繊維)を見直し、主役としてよみがえらせようとする試みでもあった。当然のごとく表現形体も自由になり、石や木や金属のような堅い彫刻を向うにまわして、柔らか造形(ソフト・スカルプチュア)の魅力を発揮。のびやかな空間造形にも適しているため、この企画展会場でも自由奔放な実験作が繊維造形美を競い合っていた。
出品者の一人に選ばれた染色作家の中野光雄さんは、その時(1971年)まだ30代の若さ。タテ3.5メートル、ヨコ10メートルもある超大作「37のパターンと5つの箱」を、広々とした美術館の一壁面いっぱいに繰り広げ、鑑賞者の注目を集めた。折りしも美術界では、周囲の空間そのものを巻き込むような「環境アート」が流行し、視覚に訴えるチカチカしたオプテイカル(視覚的)アートが華やかなりし頃。当然のごとく、エネルギッシュな若き中野さんにしても、こうした時代潮流を敏感に受けとめていたはずなのだろうが、いたずらに新奇さをねらって飛びはねるタイプではなく、あくまで「型染」という伝統的な表現技法にこだわり続ける頑固さも見せていた。
今少し、この出品作を回想してみよう。あてがわれた壁面には、タテ長の白布9枚が天井から床まで垂れ、そこへ迷彩を施した37個の円形がユラユラ揺れ動く……といったパターンの仕事。いかにも複雑なオプテイカル効果を出しているのだが、凝視し直してみると、37個もある円形の中の図柄はすべて同ーの型紙によるもので、一個ずつステンシル技法で配色に変化を加えているための視覚効果ということに気付く。そのうえ、これも同様の型染模様で覆われた5つの箱を布面上に配置、より豊かな空間性を生み出していた。
初期のころから今日まで、中野さんの作風には微妙な変化こそあれ、自分の体質に一番ピッタリ合うのか、一貫して「型染」による幾何学文様を追求してきた。最近の心境を「染織の技法を使って自分のイメージを展開させている感じ。だから、染織の本道を歩いてきたという意識は薄い」と語る中野さん。まずはその足どりをたどってみよう。
昭和10年(1935)、大阪市内で材木商を営む家の次男として生まれた。いっだったか、家業とは無縁な染織の道に入ったきっかけを尋ねたら、
「母校の豊中高校では、当時のデザイン・ブームを反映して、京都市立美大(現・芸大)のデザイン科に進学する者が多かったんだけど、頑固でヘソ曲がりのボクは、誰もやらんことをやってやろう!ということで、昭和29年(1954)に美大の染織科に入学した」と語ってくれたことがある。
当時、京都美大の染織科といえば、型絵染の第一人者として知られた稲垣稔次郎氏と、ユニークなロウケツ染で注目されていた小合友之助氏の両教授を擁し、充実した指導がなされていた。当然のごとく両教授の人柄と芸術の魅力にひかれて、数多くの若手作家が育っていった。ただ、両教授の作風があまりにも魅力的すぎて、型染をやる作家たちはいつしか稲垣調の作風に陥り、ロウケツ染の道に進む作家たちは知らず知らずのうちに小合調の作風に陥りがちな危なさをはらんでいた。
今なお多くの教え子作家たちから亡き両教授の思い出話を耳にすることが少なくないが、中野さんもこの対照的な二人の恩師の人物像を分析しながら、
「稲垣先生は知的で理づめ、自作でもキチンと説明される。小合先生のほうは、ぼうようとしたスケールの大きさで、禅問答に近い応答。学生の作品(下描き)に対しては、小合先生が手を入れて直されるのに対して、稲垣先生のほうは手を入れないで口で話されることが多く学生に考えさすほう」と回想する。両教授に対するあこがれにも似た感動を覚えたという中野さんは、自らの性格には型染のほうが向いていると感じて稲垣教授に傾倒、専攻科へ進んだ昭和33年(1958)から恩師のあとを慕って新匠会展に出品しはじめた。
しかし、みずからを「生来のヘソ曲がり、頑固者」という中野さんにとって、あこがれの恩師であっても「師の跡を追うだけでは所詮、師風を乗り越えられるものではない。何か別の可能性はないかと思い悩んだ末の出発が、反復くり返し可能な、円を主体にした幾何学文様の型染だった」。新匠会会員に推挙された昭和38年(1963)の11月、中野さんは京都市内の画廊(ギャラリー16)で初個展を開いた。この年の6月には、型絵染の人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されて間もない恩師・稲垣稔次郎氏が61歳の生涯を閉じている。複雑な思いを込めての初個展だったと思うが、会場には「MARUのメルヘン」と題した型染12点の力作が並んだ。服地の芯(しん)などに使うナイロン製の不織布に、植物染料の茶系統と黒色だけで大小さまざまなマル群をシンメトリック(左右相称)に型染するという試み。禁欲的な色彩・構成と不織布の不浸透性とが不思議に響き合い、幾何学的な抽象呈茶羅でも見るような渋い土俗性を感じたのを覚えている。
この初個展の翌年、新匠会展で第1回稲垣賞を受賞するが、翌々年には恩師のいなくなった同会を退会、個展や各種企画展を主舞台に発表を続けることになる。今少し、作風変選の跡をたどってみよう。
「イメージを伝達するのに、出来るだけ単純な形態を用いて、その形態の組み合わせ方や、色彩の配置の工夫等によって、様々な視覚的効果を楽しめる作品を作りたい。これは、私が型染を始めた当初からの一貫したテーマだった」と語るように、中野さんの型染の根底には、幾何学的な文様という味も素っ気もない単純な形をあえて扱いながら、その禁欲的世界の中からいかにして豊かなイメージの文様世界を花聞かせるかという難題を自らに課せている意志、つまり甘えの構造を排除し続けてきた芯の強さが息づいているように思えてならない。それだけに、初期作では時として、シンメトリックな文様の配置がややもすれば窮屈な印象を与えることもあったが、冒頭で紹介した137のパターン・・・・」をはじめとする1970年代の作品になると、色彩上の開放感があらわれてきた。それまでの作風がモノクローム(単色)な「マルの配列」の構成に力点が置かれていたのに対して、137のパターン・・・・」あたりから「色彩の組み替え」のほうに意識が移っていったようだ。多彩な配色を効果的に染め上げるには、もはや微妙な味を出す不浸透性の不織布は適した素材ではなくなり、再び、白布へ戻っていった。白布だけではない。植物染料による型染と併用して、ステンシル技法で顔料を色差しする場合には、和紙のほうが適している。
型染とステンシルの併用技法による和紙染の作品の中でも忘れられない作品が、昭和52年(1977)の「マッチ棒の踊り」シリーズ、だ、った。歯車を思わす黒い円形の舞台上で、数本の紙マッチ棒がコケティッシュな動きを見せる作品だが、同一のパターンが少しずつ微妙に変化し、マッチ棒の頭部の色がカラフルに入れ替わったり、マッチ棒の数が増えたり減ったりするので、観客に固まれ娼態を見せながら踊りまわる踊り子の足にもみえてくるのだ。それ以前の作風に比べると、コミカルな陽性さや具象性が増してきた感じが強かったので、イメージ涌かせの胸の内を聞いてみたら「ボクの場合、日常生活の中からイメージを涌かし、日常的な道具や風景をヒントにして抽象絵模様を生み出していくことが多い。この作品の場合も、喫茶店で人待ちしている時、手もちぶたさに紙マッチをもて遊んで、いるうちに形と色の面白さに気付き、2・3年もデッサンを繰り返した末に、ようやくつかんだ自分の絵模様」ともらしてくれたことを思い出す。
そういえば、新匠会の創立メンバーで、色絵陶磁の人間国宝だった富本憲吉氏は、後輩作家たちに「模様から模様をつくらず」と力説していたという。焼きものであれ染織であれ、従来の工芸は先人たちが考案した模様を模倣しながら作品を作ってきていたが、それではみずみずしい独創的な絵模様(意匠)は生まれない。それより、自然の草花や風景は言うまでもなく、一見「幾何学的抽象画か?」と思われがちな連続模様でさえも、庭先に咲いていた五弁の花びらを持つ「ていかかずら」や羊歯(しだ)の葉を写生し尽くした末に編み出した独自の意匠なのだ。富本氏と手をたずさえて新匠会を支えてきた稲垣氏にしても、「模様から模様をつくらず」の理念を実行していった巨匠だった。その意味では、具象的な動植物や歴史物語を型絵染に仕立て上げた稲垣稔次郎氏の薫陶を受けながら、教え子の中野さんは師風とは一番遠く離れたところで、最も忠実に新匠会の基本理念を受け継ぎ、実行に移してきた作家の一人といえよう。
「マッチ棒の踊り」シリーズと同じように、日常生活の中からイメージを涌かせた作品の中に、「紙テープ」(1978)や「横断歩道」(1979)がある。前者は「マッチ棒の踊り」によく似た図柄で、これも紙テープという日常よく使う日用品からイメージをふくらませたのだという。何の変哲もない紙テープ片が、中野さんの手にかかると、コミカルな動きを見せる楽しい組み作品によみがえるから不思議だ。後者になると、一転して直線構成による作風へと変わるが、これとて市内の高いビルのレストランで食事をしていた時、窓ガラス越しに見降ろした交差点付近の雑踏や京都の町特有の碁盤目の家並みがヒント。長いことそのイメージが心に焼きついていたのが数年してよみがえり、作品化されていったのだという。対象をスケッチブックに写生したのを、そのまま絵模様にしてゆくほど単純で、はなく、あたかも葡萄がじっくり醗酵して美味酒を生み出すように、息長いイメージの醸成期間をかけての制作なのだ。
昭和52年(1977)の夏、中野さんは佐藤雅彦教授を団長とする京都市立芸術大学アフガニスタン伝統工芸学術調査隊の一員として約2ヶ月間、アフガニスタン各地の伝統工芸調査に参加した。調査が終わって帰国の途中、佐藤団長らとネパールに立ち寄ることにした。首都カトマンズには、わずか3日間の滞在だったが、混沌として人間くさく、泥々した風土が中野さんの心をとらえたという。これを機に、毎年春休みになると中野さんのネパール行きが始まった。仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、チベット仏教などが混然とぶつかり合って共存している因。写生帳を埋めるスケッチの旅というより、ごちゃごちゃした異郷の街中をひたすら歩きまわり、ネパールの空気を全身で吸収する旅だったようだ。
とりつかれたようにネパール行きを続けながらも、中野さんが「カトマンズ幻想」シリーズを初めて発表したのは、初めての旅から4年もの歳月が流れた昭和56年(1981)の秋、京都市内の画廊(ギャラリー16)での個展会場だった。
技法・素材は、和紙に得意のステンシル技法で顔料を摺り込んで彩色した幾何学抽象絵模様なのだが、正方形のユニットを15枚、あるいは21枚も組み合わせた横長の大作群からは、これまでの作例では味わえない不思議な土俗臭が漂っていたのだ。たとえば「カトマンズ幻想一音楽、舞踏」という大作。60センチ四方のユニットがヨコに7列、タテに3列、あわせて21枚も並び、地獄の業火が横長画面いっぱいに吹き荒れるように見えるかと思えば、ジグザグ状の石段か建造物が密集している風景のようにも見えるのだが、近づいて見ると21枚すべてが同一の型による単純な幾何学模様。それで、いながら、異国の不思議な匂いが漂ってくるのは、赤や黄、緑、紫などの配色を自在に変えることによって生じた成果だろう。残念ながら、まだ一度もネパールを訪れたことのない身でありながら、個展会場へ足を踏み入れた瞬間、カトマンズの街を行き交う人々や、にぎわう寺院の情景がほうふつとしてきて、うれしい気分になったものだ。
この個展を境いに、中野さんは堰(せき)を切ったように毎年のごとく「カトマンズ幻想」シリーズを発表し続けた。街中の雑踏や窓、祭、さらには王宮、仮面、朝の祈りなどのイメージが相ついで、作品化されていく。そして昭和61年(1986)の11月、芸大の同僚たちとインドの美術工芸調査に出かけ約1カ月間、インド各地を旅したのが機縁となって「インド紀行」シリーズが登場。「遺跡のある風景」ゃ「華麗なる結婚式」などのイメージが、コクのある色彩と幾何学文様で展開していく。その後もネパール、インド、タイへの旅は続いた。
中野さんの経歴を拝見しても、欧米への旅は6年ほど前のイギリス、スペインぐらいで、大半が東南アジア。よほど体質に合っていたのだろう。
1990年前後から、中野さんの作風に微妙な変化があらわれる。たとえば1989年あたりから始まる「ネパール紀行」シリーズ。正方形のユニットを15枚ほど配列する組み作品には違いないのだが、シリーズの中でも「花の踊り」や「祭の日」「ネパールダンス」に見られる色彩の躍動感は、ょうやく彼の国の風土や体臭、気質みたいなものを、のびやかに昇華したあらわれと見えた。ギザギザの歯車を思わす円の中が、複雑な色彩の巴(ともえ)文様に彩られ、各ユニットの縁(ふち)取りまでカラフルに染められているため、きらめく彩色美を発揮するのだろう。
近年の「迷宮都市」シリーズになると、大小の円や星形、歯車形、方形などによる整然とした幾何学文様に微妙な乱れを導入するかのように、ゴチャゴチャ入り組んだ路地の地図を線描きしたような乱線文様があらわれ、あたかも禁欲と自在とのせめぎ合いのように思えて楽しい。
楽しい試みといえば、比較的初期のころから発表してきたクラフト作品。人が身につける着物や帯地づくりには、どうしてものめり込めなかったという中野さんも、小扉風や団扇のような日常品づくりには早くから手を染めていたようだ。中でも楽しかったのは昭和62年(1987)、京都市内の画廊(ギャラリー・マロニエ)で開いた「うちわ百種展」。既成のうちわの和紙面に顔料で型染したものだが、20通りの同一型をそれぞれ5通りずつ配色変えしているため、どれひとつとして同じ文様のものはないという百本のうちわ競演だった。
旺盛な制作・発表を続ける一方、母校の京都市立芸大の後進の指導にあたって30余年。同じイノシシ年生まれの頑固者同士という親しみもあって、初個展から中野さんのお仕事を拝見してきたが、いまその足どりを振り返ってみると、いかにも「みずみずしい頑固さ」という印象を強くする。あえて抽象パターンの型染を続けてきたのも「潜在的に順列・組合せの考え方が好きで、繰り返しの面白さ、展開させることの楽しさがあった。当然、型染を始めた時から稲垣(稔次郎)調や芹澤(銈介)調とは違うものを!という意識も強かった」ともらしてくれた。
限られた世界の中で、いかに豊かな文様美を展開していくか。当然のことながら、中野さんにも人知れぬ制作の壁にぶつかることがあったに違いない。その節目節目でもあるかのように、ある段階ではモノクローム(単色)の世界がカラフルな世界へと変貌をとげたり、またある節目では単純ユニットの中に複雑さを漂わせ始めたり………。今後もマンネリズムに陥らないための苦闘を内に秘めながら、この作家ならではの色彩世界を追求し続けることだろう。