中野光雄氏の染世界
一ネパールを主題にした作品を中心に


塩川京子(美術史家)

 中野光雄氏が初めてネパールの首都・カトマンズを訪れたのは1977年、その時はアフガニスタンが主な目的地で、帰途立ち寄って3日間滞在しただけであった。だが血が騒いだというのであろうか、氏はカトマンズの虜になった。そしてこの3日間の経験が氏のその後の方向を決定したのである。氏をこうまで惹きつけたネパールあるいはカトマンズとは一体どんな所なのだろうか。私にも興味があった。本屋に立ち寄ってネパール関係の本を探したが奈良辺りの書店では全然見付からないのだ。インド関係の本はごまんとあるのに。たまたまネパールに興味を持っている知人がいて、その人からかなりの写真集や案内書を見せてもらう事ができた。それによって私は氏がのめりこんで、行ったものが、おぼろげではあるが解りかけてきたような気がした。
 ネパールは日本より面積も小さく、人口も少ないが、多民族国家、多言語国家で実に多様、複雑にして怪奇(?)な奥の深い国であった。多民族、多言語と聞いただけで単純な国家形態に置かれている私たち日本人には理解の範障を超えた異次元の世界である。だがカトマンズに足を踏み入れた時、氏は懐かしさを感じたと言う。
 ネパールの首都・カトマンズは、町を歩けば多数の言語が行き交い、様々な顔付き、服装をした人々が町に溢れている。ヒンドゥーの寺院やラマ教寺院もあれば仏教寺院もある、近年はイスラムの寺院もあるとか。そういった寺院の歴史的建造物で街は溢れているのだが、傍に近代的な建物があるという風に、まるで全世界が凝縮されているかのようであった。一見混沌としているようでいて、程よく調和していて混沌そのものが一種の秩序とさえなっているかのようである。インドと中国という大国に挟まれてどちらの国にも支配されまいとしているこの小国、さまざまな異郷の民の言語、宗教、文化を受け入れて回害せず共存させるおおらかなまでの懐の深さを持った街、固なのである。あらゆる文化、宗教、言語と共存していくことがこの国の独自性あるいは独立性を保つことなのであろうか。
 原始、字宙が生成されるとき、世界は天も地も区別なくどろどろしていた、これをカオスの状態というのだとか、それが生成され、整然と秩序を持ちコスモスとなったという。カトマンズはカオス的な町であった。しかもこのカオスはコスモスに向かつて進んでいる風でもない。カオスのまま少しずつ形を変え膨張しているようである。カオスである事もまたこの街の、否この国の魅力でもあろう。
 人もまたこの世に生れ出る前、母の胎内で、どろどろとして頭も胴体も手足も混沌としてカオス状態の中で浮遊していたのではないか。カオスの町・カトマンズは母の胎内のような居心地の良さをもっていたのかもしれない。氏は人間の原点に触れたような気持になったのではなかろうか。それが懐かしいという言葉となったのだろう。
 氏の内部でカトマンズはそれこそカオス的に変幻し、様々に形を変え、コスモスに至るのに4年あまりの時間を要する事になる。氏の仕事は型染め一筋で、その表現は「マッチ棒の踊り」「横断歩道」などに窺えられるように明快でどちらかと言えば簡潔であった。そして白地の背景が個々の形をより鮮明に浮き彫りさせていた。1981年制作の一連のカトマンズを主題としたものでは、背景に赤、黄、緑、黒、紫などで彩られたジグザグの縞模様が、染面全体を覆っている。それぞれの色彩はやや燥んだ色調を帯び、カトマンズの町の空気を浮き彫りさせている。町の建物はレンガ造りが大部分でこげ茶や赤茶色、爆んだ黄土色が諾調となっていた。しかも街にはゴミが溢れ、すでに排気ガスが充満していて公害問題が懸念されるような様相を示していた。決して清潔な街ではない、しかし温かいものに満ちている。これらがカトマンズの街の色彩である。そしてその色調は私たちが戦前から戦後にかけて目にした銘仙の色合いをふと思い出したりするのだ。おばあちゃんが羽織っていたネンネコ、ふだん使いのお布団など、常に霞がかったような色彩は野暮ったく、洗練とは対極のものであった。銘仙は染色された糸によって織られたせいか模様も角張っていて、そんなところも氏のジグザグとした縞模様と共通している。だが銘仙の持つ暖かな風合いは(色調から生じているように思われるのだが)、私たちが置き忘れた貴重なもののーつだったのではなかろうか。まだ列島改造とか土建屋に毒されていない日本が銘仙とともにあった。ボンネットパス、木枯し、火鉢、汽車の汽笛や霜焼け等など、昭和30年代まではごく当たり前だったもの、そして今はもうないものたちが銘仙には一つ一つ丁寧に織りこまれていた。だから銘仙が消えた時、それらも一緒に遠くへ行ってしまった。
 氏がカトマンズで、出会ったもの、もちろん異国の地だから風景も風物も異なっていたであろうが、それは銘仙的なものだったにちがいない。銘仙に織りこまれ、包まれて逝ってしまったものが、この異国の地にはあちらこちらでまだ生き続けていたのである。想像するに、街を行く人の服を見れば、袖口は汚れでテカテカに光っていたり、子供は鼻汁をたらしていたり(昭和30年代、私たちもこうだった)、様々な民族服(日本人が普段着に民族服、即ち着物を着なくなってどのくらいたつだろうか)が行き交っていたのだろう。少々不潔で、ダサいけれど個性的で人間的で、あった。私たちが失ってみて初めて大きな穴があいていることに気付いたものたち。私たちはその穴を埋める術を最早持ち合わせてもいない。だが氏はあえてその穴を埋めようと試みている、カトマンズがその指針となったのである。
 氏の作品に表現されたジグザグな色線はカトマンズの曲がりくねった迷路を象徴しているのだろうか(昔、日本にも曲がりくねった狭い地道が無数にあったものだった。路地と呼ばれ、人と人が往来し、お喋りをし、夏は床机まで出して涼んだものだった。そこでは我が物顔に車が行き交うことはめったになかった。路地は人のためのものであった)。一本の色線を辿って行くと何時の間にかに違う色線になってしまう。作品を観る者もまた迷路に入りこんだような錯覚に陥る。あるいは行き交う人々の様々な民族服の華やいだ彩りを表現しているのだろうか。あるいは人々の異なった言語の波長を示しているのだろうか。
 殊に「カトマンズ幻想一街・人」からは人々の衣擦れの音やざわめきが聞こえてくる。市が聞かれており、力車がひっきりなしに通って行く。男、女、老人、子供、若い娘、物売り、旅人などのいろいろな声、泣き声、笑い声、怒鳴りあう声、それらは喧騒で、はなく、街を形成する活気となって、作品を艶やかに彩ってゆく。カトマンズの街がそうであるように、氏の作品も私たちを温かく迎え入れてくれる。迷路に迷い込んでも、皆目解らぬ言葉で話しかけられても不安にならない、その優しい温かい色調が不思議な安心感を与えてくれるから。
 氏の作品ほどに、実際のカトマンズの街は洗練もされていないであろうし、美しくもないであろう。氏が当地に寄せる熱い想いがこのような形となって実を結んだのである。斜めにジグザグに走る色線は右から左へと明から暗へと微妙なグラデーションが施されている。日の出から日没までの時間の移り変わりを示しているのであろうか。時間が経過しても街の人出にあまり変わりはなさそうだ。あるいは建物の影になった部分と日当たりの場所を示しているのであろうか。いづれにしても画面から私は太陽の光を感じる。
 「カトマンズ音楽・舞踏」はバックに斜めに走るジグザグの色線がネパール音楽の調べを表出し、縦横に走る直線は舞踏する人を表わしているのだろうか。あるいはパックが軽やかな旋律ならば、直線は切れ味の良いリズムであろうか。ネパールの人々は民族の数だけ多様な音楽と舞踊を持っている。彼らの踊りは誰に教わるでもなく、お互いに見合い、確かめ合いながら自然に身についていくのだとか。様々な音楽が染面から湧き起こってくる。踊り手たちは音楽に合わせて軽やかに、リズミカルに踊る。斜めと縦横に走る色線が余すところなく人々の楽しむ様を伝えている。
 続く「カトマンズ幻想寺院」では街全体が文化財の様相を示しているカトマンズが示されている、ここにも寺院と寺院を繋ぐ道が続いている。円はカトマンズに数多く点在する寺院とそこに数多く描かれている蔓茶羅をあらわしているように見える。円は氏が初期の頃から好んで、使っているモチーフである。円ほど簡潔で完壁なバランスを持ち、すべてを包含した形、究極の形体はないという。しかも円は宗教的なイメージをも包含している。輪廻の思想もそうであり、蔓茶羅に描かれた世界観、宇宙観などにも円が象徴されていると氏は語る。そしてこの作品に表わされた円は同じ形の円でありながら、色面を変化させることによって一つ一つが異なった表情を見せている。それはヒンドゥー教と仏教思想の融合を示し、宗教だけに止まらず、あらゆるものを寛大に受け入れてきたネパールの社会、歴史をも象徴している。この円の中からヒンドゥの神々や、仏陀の姿が髣髴としてくる。
 翌'82年の「カトマンズ幻想一雑踏」では様々な衣裳の人々が行き交う度に袖が触れ合い、時には身体がぶつかりあっている。雑踏のせいか彼らの動きはやや緩やかで、ある。迷路とおぼしき斜めに走る色線は、'81年の「街・人」より幾分拡大され、それだけ人々の声が大きくはっきりと聞こえてくる。皆、楽しげでぶつかっても誰も怒りの声などはりあげない。しかし小競り合いも多少はあるとみえる。黒や茶色の色線はやや苛立ちを隠しきれないでいる。様々な色線が人のうねりとなってこちらに向かつてくる。人々の歩く様が次第に具体化されて私たちの目の前に浮かび、上がってくるではないか。私たちも次第にこの雑踏の中に巻き込まれて行きそうである。氏の作品には具体的な事物は一切表わされない、すべて幾何学的な形に凝縮されている。しかもその簡潔な形は繰り返すことによって更に豊かな表情を創り出す。作品と暫く対峠していると人々がざわめき、行き交うのが見えてくるのである。
 「カトマンズ幻想一祭」では祭の山車が街を練り歩いている様が表現されているのだろうか。山車が移動する、動く度に人々の波も動く、そして彼らは歓声を上げ、祭の気分は最高潮に達する。ネパールの祭を見物した日本人は異口同音にとても懐かしい気持になるという。ネパールの祭には神輿のようなものも繰り出しているし、祇園祭や高山祭、あるいはねぶた祭などを連想する山車巡行もある。こんな光景に日本との共通点を見出すのかもしれない、あるいは信仰心の厚い人々の姿に私たちの遠い祖先の姿を思い出しているのかもしれない。かつて祭の日は日本の人々にとってもハレの日であった。神への感謝あるいは神の怒りを鎮めることが祭りであった。祭の日にしか口に出来なかったご馳走、晴れ着、そんなものがどんなにか心躍らせた事だろう。それらが日常的になってしまった今の私たちには祭の意義も忘れてしまっている。私たちの幼い日には祭りはまだハレの日であった。ネパールの人々が祝うように興奮やどよめきがあった。氏も幼い日の祭を思い出してネパールの祭に参加していたのだろう。
 「カトマンズ幻想一窓」カトマンズの建物、寺院、王宮はいうに及ばず民家の窓にさえ実に精巧な木彫が施されていたり、凝ったデザインがなされている。この作品ではそうした窓の意匠が簡潔化され、象徴化されており、一つ一つの窓の向こうに営まれているネパールの人々の歴史と暮しを暗示しているのである。'83年の「夜のカトマンズ」は一転して夜が舞台となっている。夜の帳に覆われた街は迷路も建物の色も人々の衣装の色も閣の中に吸い込まれてしまっている。街の喧騒も鎮まり、まだこの街の夜は神々のための時間なのである。
 '85年に至ると氏の作品は一つのもの、あるいは一点に集中されていくようだ。「カトマンズ幻想一祭A」「カトマンズ幻想一祭」は祭の山車に焦点が当てられているように見える。正方形のパターンの中央に配された底を三角形にえぐられた入道雲のような形は山車の飾りではなかろうか。インドラ・ジャトラの祭礼では寺院の塔を模した三層からなる屋形で飾られた山車が街を巡行するとか。まるで祇園祭のようではないか。しかし祇園祭は単なるパレードであり、見世物化しているが、ここの巡行は本当の生き神様が山車にのって巡行し、人々に恵みと守護を与える。祭は信仰があって行なわれるのだ。画面にも活気と喧騒の中にも敬慶かつ厳粛な気分がみなぎっている。
 「カトマンズ幻想一朝の祈りA〜E」や「カトマンズ幻想一祈りA〜E」にも入道雲の形が登場している。ここではそれらは本物の塔を象徴しているのであろう。この塔に向かつて人々は祈りを捧げる。彼らの祈りの声が蔓茶羅を形作って行く。この頃から作品空間に白が大きなウエイトを占めるようになってくる。
 '89年から90年代に入ると氏の作品の色彩は徐々に鮮やかになって行く。思うに氏のネパールへの視点が外観的なものから内面的なものへと移行していったのであろう。ネパールの人々のピュアーで温和な内面を色彩で表現したとでもいえようか。白いパックはヒマラヤ連峰の神々しいまでの雪山を暗示しているのかもしれない。赤が効果的に使われているが、ヒンドゥーでは赤は聖なる色なのである。また氏が好んで使用する円は正にヒンドゥー教、ラマ教の説く蔓茶羅の世界であろう。と同時にネパールの人々の信仰心をも示しているのである。信仰と暮しが一体となっているネパール、生も死も神々や仏たちと共にあり、輪廻思想、に従って、よき転生を願い、あるいはそこから抜け出して仏陀や神になることを願う。量茶羅は部外者には複雑で難解な図であるが、氏の量茶羅は煩雑でもなく、小難しくもなく、新鮮で斬新で、明快で温かく見るものをうけいれてくれる。氏が最もネパールに惹かれているものは、人々の神々に対する畏敬の念ではないだろうか。彼らは神々によって生かされもするが、また死に至るような報復も受ける、神々の優しさも恐ろしさも知っているが故に神々の偉大さを称える。氏もまたミューズの神に仕える身、彼らの神々に対する純粋なまでの畏敬の姿勢に、我が身との共通点を見出したのであろう。
 氏はネパールという国の素晴らしさを型染という手法で私たちに20年以上に亘って語ってこられた。氏の作品と対峠していると、不思議なロマンを掻きたてられもし、私たちが失ったものをもう一度探しに、いわば自分探しに、ネパールへ行ってみたいと思ってしまうのである。