伝統音楽の魅力を探る・レクチャーコンサート Vol.5

文楽 義太夫節はおもしろい

2009(平成21)年8月18日(火)


<ご挨拶>

 本日はご来場いただきありがとうございます。
 当会が開催してまいりました「日本の伝統音楽を探る レクチャーコンサート」も今回で第5回を迎えることができました。これも、ご来場いただいた観客の皆様方、構成解説の先生方、ご出演いただいた演者の方々、また劇場関係者等公演を支えていただいている多くの方々、最後になりましたが、初回から共催いただいている真如苑の方々。このような多くの人々のご支援、ご協力に支えられて本日を迎えることができました。紙面からではございますが、心から感謝、御礼を申し上げます。
 さて、平成18年に第1回の「地歌」、19年には「謡曲」、「琵琶楽」、昨年は「歌舞伎の下座音楽」と続けてまいりましたが、毎回アンケートにも伝統音楽がこんなにも面白かったのか、次の公演を楽しみにしている、と皆様方の高い評価をいただいてまいりました。
 今回は、文楽の義太夫節を取上げました。伝統音楽を代表する分野として早くから計画には上っていたのですが、やっと念願がかなった次第です。文楽の最高位「切場語り」の豊竹嶋大夫師、三味線の豊澤富助師のご出演を得て、構成・解説は長年文楽の制作に携われ、現在は京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターの後藤静夫教授という、最高のメンバーで「義太夫節」の魅力をお伝えできるものと思います。
 また、京都では昭和59年1月に国立文楽劇場が大阪・日本橋の地に開場するまで会場等の変遷はありましたが、「文楽京都公演」が定期的に行われていました。その後、府民ホールアルティの開場記念、十年余りに渡る南座での公演等が行われましたが、春秋の二回、定期的に開催された最後の劇場が京都府立文化芸術会館でした。
 同館では来春開館40周年を迎えられ、これを記念して今秋に文楽公演を開催されます。このため、京都の伝統文化振興に寄与された同館の40周年をお祝いするとともに、久しぶりの京都での文楽公演を成功させたいと、会場を府民ホールアルティから移しての公演といたしました。
 どうか、様々な場で伝統文化が盛んになってまいり、多くの方がその良さを楽しんでいただける時代となりますよう、皆様方のますますのご支援、ご協力をお願いいたします。
 それでは間もなく開演です。どうぞ、最後までゆっくりとお楽しみください。

京都和文華の会   代表 早川聞多

<出演者>

八代 豊竹 嶋大夫

【芸歴】
昭和23年1月十代豊竹若大夫に入門、二代豊竹呂賀大夫と名のる
昭和29年11月四代豊竹呂大夫を襲名
昭和43年4月三代竹本春子大夫門下となり、八代豊竹嶋大夫を名のる
昭和44年四代竹本越路大夫の門下となる
平成6年4月切場(きりば)語りになる(最も重要な場を語る太夫に与えられる最高の資格)
【受賞歴】
昭和62年1月大阪文化祭賞本賞
昭和62年1月第6回(昭和61年)国立劇場文楽賞文楽優秀賞
平成6年3月芸術選奨文部大臣賞
平成7年11月紫綬褒章
平成8年5月大阪府知事表彰
平成10年1月第17回(平成9年)国立劇場文楽賞文楽優秀賞
平成14年1月第21回(平成13年)国立劇場文楽賞文楽大賞
平成20年4月旭日小綬章他多数


五代 豊澤 富助

【芸歴】
昭和46年10月文楽協会三味線部研究生となる(16才)。
       師は二代野澤勝太郎、野澤勝司と名のる
昭和47年2月国立劇場で初舞台「冥土の飛脚・道行相合かご」
昭和59年4月五代豊澤富助と改名する
【受賞歴】
昭和59年3月第3回(昭和58年度)国立劇場文楽賞文楽奨励賞(第7回昭和62年度、第15回平成7年度も受賞)
平成元年2月芸術選奨文部大臣新人賞
平成6年12月平成5年度因協会賞(平成8年度、平成13年度も受賞)
平成7年1月第14回(平成6年)国立劇場文楽賞文楽優秀賞(第19回平成11年も受賞)他多数


<構成・解説>

後藤 静夫

文楽・近世芸能研究家/京都市立芸術大学 日本伝統音楽研究センター 教授1946年 静岡県生まれ 大学卒業後(財)文楽協会、日本芸術文化振興会国立劇場職員を経て、現職。文楽協会・国立文楽劇場・国立劇場を通じて34年間人形浄瑠璃・文楽の制作業務を担当。文楽の現在の活動実態の諸相・史的変化等の研究を通じて 近世芸能における人形浄瑠璃の芸能史的意味を探る著書に「人形芝居と文楽(日本の伝統芸能・4)」(小峰書店)、「文楽談義―語る・弾く・遣う」(共著・創元社)、「文楽ハンドブック」(共著・三省堂)など


<司会>

南端 玲子

<解説>  

【義太夫節について】
 
音曲の司―高い文学性と音楽的表現

 かつて義太夫節は「音曲(おんぎょく)の司(つかさ)」と云われていました。音曲、とは本来謡曲の事でした。後には広く三味線音楽を含む音楽一般のこととなりましたが、なかでも語り物・浄瑠璃を指すことが多く、義太夫節=「音曲の司」はその意味で使われたと考えてよいでしょう。義太夫節が数ある浄瑠璃の中でも際だった表現力・文学性を有していたことを表した言葉です。
 義太夫節の高い文学性は、御存知の近松門左衛門を始めとする数多の優れた浄瑠璃作家達が、さまざまの時代に材を取りながらも、実は同時代に生きる庶民の感覚に沿った人間ドラマを紡ぎ出すため、心血を注いで取り組んだ結果生み出されたものです。

歴史と成立

 人形を操る「傀儡(くぐつ)」と呼ばれた芸能は中世後期には能と結びつき「能操り」として活動していたようです。浄瑠璃と人形の結びついた「浄瑠璃操り(人形浄瑠璃)」は、16世紀末〜17世紀初に京都で行われ始めたと云われます。京から大坂や江戸にも広まり、多くの浄瑠璃語り(太夫)が、さまざまの独自の浄瑠璃を創始しました。京の角太夫節、大坂の道具屋節や文弥節、新興都市江戸でもてはやされた薩摩節や金平節等がそれぞれ人形浄瑠璃を演じていました。

・古浄瑠璃から義太夫節へー竹本義太夫の登場

 竹本義太夫が義太夫節を創始する以前の、さまざまな浄瑠璃を「古浄瑠璃」と読んでいます。古浄瑠璃は大坂の井上播磨掾はりまのじょう、京の宇治加賀掾(かがのじょう)によって一つのピークを迎えます。
 大坂天王寺の百姓であった五郎兵衛は、播磨掾の浄瑠璃を好み日頃から口ずさんでいたところ、播磨掾の弟子の清水理兵衛に見いだされ、清水理太夫(きよみずりだゆう)と名のり人形浄瑠璃に出演することになります。後京に上り、加賀掾の芝居にも出演し、独立を企てますが失敗し、修業の旅に出ます。安芸(広島県)の宮島等で浄瑠璃操りを演じつつ、音曲上の創意工夫を凝らす一方、古くからの宗教音楽や芸能(平曲・謡曲・幸若等)、古浄瑠璃の特徴ある旋律、民間の労働歌・はやり歌・門付け芸等あらゆる芸の優れたところを貪欲に取り入れ、それまでにない斬新な浄瑠璃を創り上げました。

・義太夫・門左衛門・出雲

 数年の後、満を持して大坂に戻った理太夫は竹本義太夫と名を改め、道頓堀に竹本座を旗揚げします。新しい義太夫節は、経済力を身につけた大坂の新興町人層の熱い支持を得て評判を高めます。さらに新しい時代の人間ドラマを摸索していた近松門左衛門を座付き作者に迎え、優れたプロデユーサーである竹田出雲(いずも)に座の経営を委ねた義太夫は芸に邁進し、人形浄瑠璃界の第一人者となります。

・近世音曲の頂点へ

 義太夫は元来音階が正しく大音豪放な語り口ながら、播磨掾を学んで細やかな節回しも会得しました。晩年にはさらに人情の機微の細やかさをも語り生かす境地に達したのです。
 二代目義太夫を継いだ政太夫(後上総少掾、さらに播磨少掾)は、小音悪声でしたがそれを克服するため、近松他の作品を徹底的に読み抜き技巧を錬磨し、類型的ながら登場人物の心情の写実表現を確立し、新境地を確立して、義太夫節を近世音曲の頂点に導いたと云えるでしょう。

 初代義太夫の門下からは、生まれながらの美声を生かし、華麗な技巧的芸風を確立した豊竹若太夫が現れました。若太夫は豊竹座を創立し、義太夫の竹本座と対抗して、人形浄瑠璃の黄金時代を現出しました。道頓堀の西に位置した竹本座の質実で男性的な芸風を西にし風ふう、東に位置した豊竹座の優美で女性の表現に優れた芸風を東風ひがしふうといい、義太夫節の芸表現の基本的な理念となります。後には両風が混合しますが、その理念は現在もなお尊重されています。
 さらにその後、優れた作品が繰返し上演される古典化の時代を迎えると、多くの優れた太夫の芸質・語り口を生かした表現が定着し、個人名を冠した風として尊重され伝えられてきました。

音楽的な構造―精緻かつ高度な技法

 このように義太夫節は 初代義太夫以来たゆみ無い努力によって、他に類を見ない人間ドラマを表出する音曲を作り上げました。ただその表現力を支える技巧は精緻かつ高度なものになり、太夫の生涯を懸けた厳しい修行をもってしても、完全には習得し得ない、とまで言われるほどです。そのような完成度の高い義太夫節の芸能上の位置や音楽的な構造を図示してみます。(図1〜5)
(図は井野辺潔等の説を参考にして作製)

・「詞」「色」「地(地合)」

 図2にあるように義太夫節は大きく「詞」と「色」と「地(地合)」で構成されます。「詞」は人物の台詞で、原則として旋律を伴いません。「地」は状況や人物の動作・感情、季節や時間等を表現する部分で、旋律を伴って演奏されます。文章上は「詞」でも途中から旋律をつけて演奏されることがあります。演奏に変化を付けたり、感情表現を豊かにするといった効果があります。
 「色」は詞と地の中間で、詞よりは節がかっていますが、地ほど旋律的ではありません。主として地から詞に移るときに用いられ、移行を音楽的に滑らかに、自然に行う効果があります。一方地の一種に「地色」があります。これは主として詞から地ヘ移るときに用いられ、「色」に近い「地」である、とされますが非常に微妙で、「地」との区別は演奏者にも難しいと云われます。


・「地」

 「地」には他に狭義の「地」と「節」があります。
 狭義の「地」は義太夫節固有の旋律を意味します。
(イ)は太夫の発する声の高さや発声の仕方を表します。自然な音高は「中」、「ウ」は浮かせた声、「ハル」は一段高く張った声です。
(ロ)は三味線の押さえるべき勘所(ツボ)のうち、特定の呼称を与えられたものです。三味線のツボは通常ひらがなの「いろは」や変体仮名を崩した記号で表されます。
(ハ)は義太夫節の基本的な定型の旋律を表します。
(ニ)は演奏の開始・接続・終結部分に用いられる定まった旋律です。
(ホ)は太夫の特徴的な声の技巧や間拍子を表します。リズムに乗って拍子よくかたる「ノル」や弾むように早く語る「ハズミ」などです。
(へ)は義太夫が尊重する井上播磨掾の重厚な浄瑠璃を取り入れた曲節である「播磨地」や竹本大和掾のゆったりと優雅な曲節を取り入れた「大和地」など名人・上手の特徴的な語り口です。

・「節」

 「節」は義太夫節以外のさまざまな音楽の旋律を取り入れたものです。これが長年にわたる苦心の成果であり、義太夫節が「当流浄瑠璃」として、多くの古浄瑠璃を凌駕する要因の一つとなったといってよいでしょう
 これによって優れた人間ドラマである近世演劇=浄瑠璃作品に耐えうる多彩な表現力を獲得し、人々の心を捉えたのです。
 「節」の(い)は、義太夫節に先行する中世・近世のさまざまな芸能の音楽です。平曲(平家琵琶)や舞(幸若舞)・謡曲、仏教色の強い説経節等です。
 (ろ)は古浄瑠璃作品中に使われていた詞章の旋律を取り入れたものです。「浄瑠璃姫物語」の中の「さてもやさしの冷泉や」という一句に付けられたという上品で優美な旋律が「冷泉」として今も伝承されます。
 (は)はいろいろな浄瑠璃の特徴的な旋律を用いたものです。感傷的で憂いを含んだ山本角太夫の「角太夫」、高音で哀切な岡本文弥の「文弥」などが、要所要所に効果的に使われます。
 (に)は巷の門付け芸等を取り込んだもので、伊勢の内宮・外宮の間でうたわれていた「相の山」、宗教的歌謡を元とする「祭文」、祭礼の鹿踊りの踊り歌の旋律に基づく「鹿踊り」などがあります。
 (ほ)は各地の民謡です。
 (へ)は人形の演技を際だたせるため三味線(太・細)で演奏する、背景音楽です。演技によって自由に伸び縮みするのでメリヤスと云われるのだそうです。
 (と)はその他さまざまな音楽です。

曲節の組み合わせと浄瑠璃の進行

 これら多種多様な音楽要素(曲節)を組み合わせ 浄瑠璃は進行してゆきます。
 図5のように浄瑠璃は、まず(A)三重やオクリなど段の開始の演奏で始められます。義太夫節では演奏は基本的に「三重」「オクリ」「鹿踊り」「ソナエ」で始められます。例外的に「謡」や「歌」で始められることもあります。
 この部分はマクラと呼ばれ、物語の状況を説明しながら、その段の雰囲気や性格を醸し出します。
 (B)「地」や「地色」の語りで始まり、しばらく進むと「色」となり、滑らかに(C)登場人物の「詞」に移ります。
 「詞」のあとは再び(B)「地」「地色」となります。
 この「地」―「詞」―「地」「地色」の組み合わせが何回か繰返されると、音楽上或いは文章上の区切りの部分となり、そこでは(D)「フシ(フシ落)」の旋律で締めくくられます。(ここでの「フシ」は「地」「節」の「節」とは違い、旋律型の名前です)
 このような(B)―(C)―(D)で構成される小段がいくつも積み重ねられて一段の浄瑠璃が成り立っています。そして段の最後は又「三重」や「段切」の旋律で終結するのです。
 前述のように「地」や「節」にはさまざまの旋律、技巧があり、演奏はそれらを適切・効果的に用い、快く変化に富んだ劇音楽として、人形を生き生きと活躍させ、観客に感動を与えることになるのです。

<資 料>
京都府立文化芸術会館での文楽上演記録


 文楽京都公演は戦後観賞団体の京都文楽会等の尽力で、祗園会館、弥栄会館等での公演を経て昭和46年から京都府立文化芸術会館(京都府と京都文楽会の共催)を会場として開催された。
 春秋2回、3〜4日間の短期公演ではあったが、国立劇場での東京公演、大阪の道頓堀にあった朝日座での公演(財団法人文楽協会等の主催)に準ずるものとして、技芸員の総出演、独自のプログラム等本公演と同様の体制で催された。
 昭和59年、関係者の念願であった国立文楽劇場が開場することになり、大阪での公演数が増え、京都での開催が困難となった。このため、戦後間もなくから続いてきた京都での定期的な文楽公演は一旦昭和58年に終了した。
 その後、昭和63年、府民ホールの開場記念の文楽京都公演、また、南座夏の文楽公演が平成7年から平成17年まで11回催された。
 ここに、京都府立文化芸術会館での上演記録を掲載する。


1.昭和46年2月26日~28日
○新曲 釣女 つりおんな
○桂川連理棚 かつらがわれんりのしがらみ
  石部宿屋の段、六角堂の段、帯屋の段、道行朧の桂川
○絵本太功記 えほんたいこうき
  夕顔棚の段、尼ヶ崎の段
○曽根崎心中 そねざきしんちゅう
  生玉社前の段、天満屋の段、道行天道森の段

2.昭和46年10月29日~31日
○冥途の飛脚 めいどひきゃく
  羽織落しの段、封印切の段、新口村の段
○壇浦兜軍記 だんのうらかぶとぐんき
  阿古屋琴責の段
○赤い陣羽織 三幕
○おつま八郎兵衛 桜鍔恨鮫鞘 さくらつばうらみのさめざや
  鰻谷の段
○助国小巻 契情倭荘子 けいせいやまとそうし
  蝶の道行

3.昭和47年6月3日~5日
○祖父は山へ柴刈に 祖母は川へ洗濯に
楠昔話 くすのきむかしばなし
  碪拍子の段、徳太夫住家の段
○艶容女舞衣 あですがたおんなまいぎぬ
  酒屋の段
○義経千本桜 よしつねせんぽんざくら
  道行初音の旅、川連法眼館の段
○傾城阿波の鳴門 けいせいあわなると
  十郎兵衛内の段

4.昭和47年10月27日~29日
○通し狂言 一谷嫩軍記 いちのたにふたばぐんき
  陣門の段、須磨浦の段、組打の段、脇ヶ浜宝引の段、熊谷桜の段、熊谷陣屋の段
○桂川連理棚 かつらがわれんりのしがらみ
  道行朧の桂川
○平家女護島 へいけにょごのしま
  鬼界ヶ島の段
○三間堂棟由来 さんじゅうさんげんどうむねなぎのゆらい
  熊野山中の段、鷹狩の段、平太郎住家より木遣音頭の段

5.昭和48年6月1日~3日
○通し狂言 生写朝顔話 しょううつしあさがおばなし
  宇治川蛍狩りの段より大井川の段
○菅原伝授手習鑑 すがはらでんじゅてならいかがみ
  車引の段、寺入りの段、寺子屋の段
 松王首実検よりいろは送りまで
○新版歌祭門 しんばんうたざいもん
  野崎村の段

6.昭和48年10月26日~28日
○双蝶々曲輪日記 ふたつちょうちょうくるわにっき
  引窓の段
○女殺油地獄 おんなごろしあぶらぢごく
  徳庵堤茶店の段、河内屋与兵衛の段、豊島屋油店の段
○傾城反魂香 けいせいはんごんこう
  土佐将監閑居の段
○鑓の権三重帷子 やりごんざかさねかたびら
  浜の宮馬場の段、浅香市之進留守宅の段、伏見京橋女敵討の段

7.昭和49年5月16日~18日
○艶容女舞衣あですがたおんなまいぎぬ
  酒屋の段
○絵本太功記 えほんたいこうき
  夕顔棚の段、尼ヶ崎の段
○義経千本桜 よしつねせんぽんざくら
  道行初音の旅
○勧進帳 かんじんちょう
○曽根崎心中 そねざきしんちゅう
  生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段

8.昭和49年10月4日~6日
○碁太平記白石噺 ごたいへいきしらいしばなし
  浅草雷門の段、新吉原揚屋の段
○仮名手本忠臣蔵 かなてほんちゅうしんぐら
  下馬先進物の段、松の間殿中刃傷の段、塩谷判官切腹の段、霞ヶ関城明け渡しの段
○花競四季寿 はなくらべしきのことぶき
○近頃河原の達引 ちかごろかはらたてびき
  四条河原の段、堀川猿回しの段

9.昭和50年5月30日~6月1日
○寿式三番叟 ことぶきしきさんばそう
○嬢景清八嶋日記 むすめかげきよやしまにっき
  花菱屋の段より日向嶋の段
○景事 二人禿 ににんかむろ
○一谷嫩軍記 いちのたにふたばぐんき
  林住家の段
○夏祭浪花鑑 なつまつりなにわかがみ
  三婦内の段より長町裏の段
※京都文楽会25周年記念

10.昭和50年11月14日~16日
○義経千本桜 よしつねせんぽんざくら
  釣瓶すしやの段
○双蝶々曲輪日記 ふたつちょうちょくるわにっき
  引窓の段
○壺坂観音霊験記 つぼさかかんのんれいげんき
  沢市内より壺坂寺の段
○心中天網島 しんちゅうてんのあみしま
  北新地河庄の段
○菅原伝授手習鑑 すがはらでんじゅてならいかがみ
  寺入りの段、寺子屋の段
○団子売 だんごうり

11.昭和51年6月3日~6日
○一谷嫩軍記 いちのたにふたばぐんき
  熊谷桜の段、熊谷陣屋の段
○曽根崎心中 そねざきしんちゅう
  生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段
○生写朝顔話 しょううつしあさがおばなし
  明石船別れの段、島田駅笑薬の段、宿屋の段、大井川の段
○壇浦兜軍記 だんのうらかぶとぐんき
  阿古屋琴責の段

12.昭和52年6月2日~5日31日
○絵本太功記 えほんたいこうき
  瓜献の段、夕顔棚の段、尼ヶ崎の段
○新曲 釣女 つりおんな
○伽羅先代萩 めいぼくせんいはぎ
  竹の間の段、御殿の段
○東海道中膝栗毛 とうかいどうちゅうひざくりげ
  赤坂並木より古寺まで

13.昭和52年11月2日~5日
○通し狂言 仮名手本忠臣蔵 かなてほんちゅうしんぐら
 大序  ○鶴ヶ岡兜改めより恋歌の段
 三段目 ○足利館殿中刃傷の段
     ○同裏門の段
 四段目 ○塩谷判官切腹の段
     ○同渡しの段
 五段目 ○山崎街道出合の段
     ○同二つ玉の段
 六段目 ○勘平住家身売の段
     ○同切腹の段
 七段目 ○祇園一力茶屋の段
 八段目 ○道行旅路の嫁入
 九段目 ○山科雪転しの段
     ○同閑居の段
 十一段目○花水橋引揚の段

14.昭和53年6月1日~4日
○心中天網島 しんちゅうてんのあみしま
  北新地河庄の段、天満紙屋内の段
○鬼一法眼三略巻 きいちほうげんさんりゃくのまき
  五條橋の段
○勧進帳 かんじんちょう
○摂州合邦辻 せっしゅうがっぽうがつじ
  合邦住家の段
○日高川入合花王 ひだかがわいりあいざくら
  渡し場の段

15.昭和53年11月2日~5日
○近江源氏先陣館 おおみげんじせんじんやかた
  和田兵衛上使の段、盛綱陣屋の段
○恋飛脚大和往来 こいのたよりやまとおうらい
  新口村の段
○鷺娘 さぎむすめ
○妹背山婦女庭訓 いもせやまおんなていきん
  井戸替の段、杉酒屋の段、道行恋の小田巻、鱶七上使の段、姫戻りの段、金殿の段

16.昭和54年6月22日~25日
○平家女護島 へいけにょごのしま
  鬼界ヶ島の段
○冥途の飛脚 めいどひきゃく
  淡路島より羽織落しの段、封印切の段
○新曲 面売り めんう
○嫗山姥 こもちやまんば
  廓噺の段
○近頃河原の達引 ちかごろかはらたてびき
  堀川猿廻しの段
○壇浦兜軍記 だんのうらかぶとぐんき
  阿古屋琴責の段

17.昭和54年11月2日~5日
○伊越越道双六 いがごえどうちゅうすごろく
  沼津の段
○おふさ徳兵衛 心中重井筒 しんじゅうかさねいづつ
  六軒町の段
○戻り橋 もどばし
○ひらかな盛衰記 せいすいき
  大津宿屋の段、笹引の段、松右衛門内の段、逆櫓の段
○お夏清十郎 五十年忌歌年仏 ごじゅうねんきうたねんぶつ
  笠物狂の段

18.昭和55年6月21日~24日
○二人三番叟 ににんさんばそう
○菅原伝授手習鑑 すがはらでんじゅてならいかがみ
  寺入りの段、寺子屋の段
○卅三間堂棟由来 さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい
  平太郎住家の段、木遣り音頭の段
○見事 二人禿 ににんかむろ
○夏祭り浪花鑑 なつまつりなにわかがみ
  三婦内の段、長町裏の段
○曽根崎心中 そねざきしんちゅう
  生玉社前の段、天満屋の段、天道森の段

19.昭和55年11月1日~3日
○双蝶々曲輪日記 ふたつちょうちょうくるわにっき
  引窓の段
○義経千本桜 よしつねせんぽんざくら
釣瓶すしやの段
○壺坂観音霊験記 つぼさかかんのんれいげんき
沢市内より壺坂寺の段
○団子売 だんごうり
○桂川連理棚 かつらがわれんりのしがらみ
  石部宿屋の段、六角堂の段、帯屋の段、道行朧の桂川

20.昭和56年6月26日~29日
○一谷嫩軍記 いちのたにふたばぐんき
  熊谷桜の段、熊谷陣屋の段
○新版歌祭文 しんばんうたざいもん
  野崎村の段
○義経千本桜 よしつねせんぽんざくら
  渡海屋大物浦の段
○傾城阿波の鳴門 けいせいあわなると
  十郎兵衛内の段
○日高川入相花王 ひだかがわいりあいざくら
  渡し場の段

21.昭和56年10月31日~11月3日
○奥州安達原 おうしゅうあだちがはら
  朱雀堤の段、敷妙使者の段、矢の根の段、袖萩祭文の段
○新曲 紅葉狩 もみじがり
○心中天網島 しんちゅうてんのあみしま
  口三味線の段、北新地河庄の段、天満紙屋内の段、大和屋の段
○伊達娘恋緋鹿子 だてむすめこいのひかのこ
  お七火の見櫓の段

22.昭和57年6月25日~28日
○源平布引滝 げんぺいぬのびきのたき
  竹生島遊覧の段、糸つむぎの段、瀬尾十郎詮議の段、実盛物語の段、綿繰馬の段
○艶容女舞衣 あですがたおんなまいぎぬ
  酒屋の段
○生写朝顔話 しょううつしあさがおばなし
  宇治川蛍狩りの段、明石船別れの段、薬売りの段、島田駅笑薬の段、宿屋の段、大井川の段

23.昭和57年10月29日~11月1日
○傾城反魂香 けいせいはんごんこう
  土佐将監閑居の段
○玉藻前㬢袂 たまものまえあさひのたもと
  道春館の段
○夕霧伊左衛門 廓文章 くるわぶんしょう
  吉田屋の段
○近頃河原の達引 ちかごろがはらたてびき
  四条河原の段、堀川猿廻しの段
○本朝廿四孝 ほんちょうにじゅうしこう
  十種香の段、奥庭狐火の段

24.昭和58年11月5日~8日
○冥途の飛脚 めいどひきゃく
  淡路町より羽織落しの段、封印切の段、新口村の段
○戻橋 もどりばし
○仮名手本忠臣蔵 かなてほんちゅうしんぐら
  足利●中刃傷の段、同裏門の段、山崎街道二つ玉の段、勘平住家身売の段、勘平切腹の段、祇園一力茶屋の段