伝統音楽の魅力を探る・レクチャーコンサート Vol.7

箏曲はおもしろい

2011(平成23)年10月5日(水)


<ご挨拶>

  本日はご来場いただきありがとうございます。
 日本の伝統音楽を多くの人々に伝えていこうと、平成一八年から続けてまいりました「日本の伝統音楽を探る レクチャーコンサート」も、今回で第七回目を迎えます。当初、一年に一回程度の開催でどれほどの効果があるのかと少し心配もしましたが、構成の先生方やご出演者、何にもまして観客の皆様など多くの方々に支えられ、回を重ねるごとに確かな手ごたえを感じてまいりました。ここに改めまして全面的にご支援いただいてまいりました真如苑をはじめとする関係各位に厚く感謝申し上げる次第です。
 さて、昨年は文化芸術会館において常磐津節をご覧いただきましたが、今年は会場を府民ホールアルティに戻しての公演です。伝統楽器ではなじみ深い箏の音楽を取上げ、構成解説は第一回に地歌を担当いただき、その舞台が大好評を博しました久保田敏子先生に再度のご登場をいただきます。
 また、ご出演者に今回もすばらしい演奏家の皆さんをお招きすることができました。東京からは山田流の名門萩岡松韻さんとお嬢様の萩岡未貴さん、萩岡信乃さん。福井市からは京極流の家元和田一久さん。関西からは生田流でご活躍の気鋭の横田佳世子さん、片岡リサさん、となかなか聴くことのできない素晴らしいメンバーにご出演いただくことができ嬉しい限りです。
 一方、今回も多くの方にお申込をいただきましたが、大幅に定員を超えて抽選とせざるを得ませんでした。多数の方からご応募いただいたことへの感謝とともに、ご参加いただけない方には大変申し訳なく存じております。今後に向けて体制の強化をはじめとして、皆さんのご要望にお答えする方法がないか、関係者ともよく相談をしてまいりたいと思っております。どうか、今後ともますますご支援ご鞭撻いただきますようお願いいたします。
 それでは間もなく開演です。どうぞ、最後までゆっくりとお楽しみください。

京都和文華の会   代表 早川聞多

<プログラム>

Ⅰ・主催者挨拶…………………………………………………早川聞多
Ⅱ・筝曲について………………………………………………久保田敏子
Ⅲ・演奏 その一
 ①箏曲の原点
   《六段の調》……………………………………………萩岡松韻
 ②箏曲のルネサンス
   《秋風の曲》六段打合…………………………………横山佳世子・片岡リサ
 ③箏曲のネオ・クラシック《厳島詣》……………………和田一久
 ④箏曲の浄瑠璃化《須磨の嵐》……………………………萩岡松韻・萩岡未貴・萩岡信乃
  休 憩
Ⅳ・演奏 その二
 ⑤洋楽的新技法の導入
  宮城道雄作曲《ロンドンの夜の雨》・《秋の流れ》…片岡 リサ
 ⑥現代に蘇る古典の名曲 
  広瀬量平作曲《みだれによる変容》……………………横山 佳世子
 ⑦最先端の多弦箏
  伊福部昭作曲《琵琶行―白居易ノ興二倣フ―》………横山 佳世子

 司会…………南端 玲子

<出演者>

<山田流>  萩岡松韻(はぎおか しょういん)

三世萩岡松韻の長男として生まれる。
昭和45年(1970)中能島慶子、中能島欣一両師に師事。
昭和55年(1980)東京藝術大学在学中に四代目を継承。
平成20年(2008)東京藝術大学教授に就任。
作曲活動にも力を入れ、歌僡抄他CDのリリースも多数。現在、箏・三弦の並列譜に曲目解説、実演CD付きの「山田流 四ツ物全集」を制作中。
芸術選奨文部科学大臣新人賞、文化庁芸術祭優秀賞、伝統文化ポーラ優秀賞等 受賞多数。
日本三曲協会常任理事、山田流箏曲協会会長、東京藝術大学同声会理事、正派音楽院講師。


<山田流>  萩岡未貴(はぎおか みき)

四代目萩岡松韻の長女。
山田流箏・三弦を鳥居名美野師に師事。
長唄三味線を人間国宝 杵屋五三郎師に師事、杵屋五凉の名を許される。
平成21年(2009)東京藝術大学大学院修士課程修了。
在学中、常英賞、浄観賞、アカンサス新人賞、同声会新人賞受賞。
現在、同大学博士課程在学中。
平成21年(2009)文化庁芸術団体人材育成支援事業において、胡弓を高橋翠秋師、河東節を人間国宝 山彦節子師に師事。山彦みきの名を許される。
平成22年(2010)日本伝統文化振興財団 邦楽オーディションに合格、記念CDをリリース


<山田流>  萩岡信乃(はぎおか しの)

四代目萩岡松韻の次女として、生まれる。
幼少より、姉と共に父・萩岡松韻に手ほどきを受ける。
平成16年(2004)より、山田流箏・三弦を藤井千代賀師に師事。
平成21年(2009)東京藝術大学邦楽科卒業。
在学中、安宅賞、アカンサス音楽賞、同声会新人賞、中能島賞を受賞。
平成23年(2011)同大学大学院修士課程修了。
同年 三曲新進演奏家研修支援事業において、東明流を東明潮舟師、長唄を今藤郁子師、長唄三味線を人間国宝 杵屋五三郎師に師事、現在勉強中。


<京極流>  和田一久(わだ かつひさ)

昭和20年(1945)2月8日、大阪市浪速区生まれ。
昭和45年(1970)3月、京都大学大学院理学研究科修士課程修了(物性物理学)。都山流尺八クラブ「叡風会」に所属、森田鸞山に師事。
昭和40年(1965)8月、福井市に京極流の雨田光平を訪ね、そのまま師事。
昭和45年(1970)4月以来十七年間の富士電機勤務ののち福井に移住。
昭和60年(1985)12月、三世宗家就任、主に京都で毎年の演奏活動。
平成22年(2010)10月、第三十回伝統文化ポーラ賞(地域賞)受賞。


<生田流>  横山佳世子(よこやま かよこ)

0歳より故沢井忠夫氏に生田流箏曲および現代邦楽を師事。
東京藝術大学大学院修士課程修了。
平成5年(1993)NHK邦楽オーディション合格。
平成13年(2001)大阪府舞台芸術奨励新人賞受賞。
平成17年(2005)文化庁新進芸術家国内研修生。
平成20年(2008)京都市芸術文化特別奨励者。(公財)日本伝統文化振興財団より主演CDをリリース。平成20年度文化庁芸術祭賞新人賞受賞。
現在、鳴門教育大学非常勤講師。野坂操壽氏に師事。


<生田流>  片岡リサ(かたおか りさ)

大阪音楽大学卒業。幼少より数々のコンクールで優勝、平成13年度文化庁芸術祭新人賞を洋楽邦楽問わず史上最年少で受賞するなど、伝統音楽の枠を超えた音楽性が様々なジャンルで高く評価されている。
また「歌」にも定評があり、箏曲の古典「地歌」だけでなくベルカント唱法での弾き歌いも行う。
平成23年(2011)第21回出光音楽賞受賞、平成22年度 大阪文化祭賞など多 数受賞。現在、大阪音楽大学、同志社女子大学、兵庫教育大学講師


<構成・解説>

久保田 敏子

相愛女子大学音楽学部作曲学科卒。同研究科音楽学専攻修了。龍谷大、奈良教育大、京都市立芸術大同日本伝統音楽研究センター教授を経て、現在同所長。

<解説>  

◎箏曲について
 「箏曲(そうきょく)」は、箏(こと)を中心に据えて演奏する邦楽曲を指す。これに対して、三味線を中心にした歌曲を「地歌」という。地歌三味線に箏や尺八、胡弓などが加わった場合でも「地歌」と称したが、その中でも、箏の活躍度の多い「手事物」と呼ばれるジャンルの地歌は、「地歌箏曲」と言ったり、「箏曲」と言ったりもする。
 したがって、「箏曲」といっても、箏だけの演奏とは限らない。
◆最古のコト
 『古事記』には、大国主命が須勢理毘売(すせりびめ)を略奪して駆落ちする時に、太刀や弓矢と一緒にコトも背負って逃げたが、木の枝に引っ掛って音が鳴り、居眠りをしていた父の素戔嗚尊(すさのおのみこと)に見つかった、という記事があり、熊襲征伐の時に、仲哀天皇の弾くコトで神功皇后が神懸かりになったという記事もある。古代の日本のコトは小型で、神の神託を仰ぐ用具で、高貴な男性の持ち物であった。コトを膝の上に乗せた埴輪も出土している。

埴輪弾琴像(古代日本のコト。膝上に乗る大きさ。概ね六弦。和琴の祖型か)

◆箏の伝来
 13弦の箏(そう)のコトは、シルクロードを通って中国にもたらされた楽器が、唐の宮廷から日本に伝えられ、早くも奈良時代に、宮廷音楽の雅楽に採用された。他にも多くの弦楽器がもたらされたが、平安貴族が日常愛玩したのは、箏の他に、琵琶と、コトの仲間の琴(きん)であった。琴は7弦で、ブリッジを立てずにポジションを直に押さえて指で弾く。七弦琴とも呼ばれたが、既に平安時代後半には下火となった。
 やがて、雅楽《越天楽》の旋律に七五調四句の今様体の歌を付けて箏伴奏で弾き歌う「越天楽歌物」も誕生し、寺院でも盛んに行われるようになった。

『源氏物語絵巻』若菜巻(管弦の御遊。僧侶が箏を演奏)

雅楽《越天楽》の総譜 (●は太鼓。箏譜は左端。現行と同様の糸譜)


◆筑紫箏の誕生
 室町時代の末、九州は筑紫国の善導寺の僧賢順(1534?〜1623?)は、寺院箏曲を芸術的なものに手直しして、弾き歌いによる歌曲を編み出したが、音階には多分に雅楽の名残を留めていた。これを「筑(つく)紫(し)箏(ごと)」という。
◆俗箏の誕生
 上方で活動していた平家琵琶や三味線の名手でもあった八橋検校(1614〜1685)は、一旗揚げるべく新天地の江戸に出て、たまたま還俗してコト糸商になっていた、賢順の弟子の法水に出合い、彼らのような身分の者では習えなかった筑紫楽を教わった。八橋はこれに手を加え、半音を含まない雅楽の調弦だった箏に半音を加えて、「平調子」を考案し、その音階で、筑紫箏の音楽も大幅に改変して、現在の箏曲の基礎を固めた。それは、弾き歌いによる雅な歌曲「組歌」と、歌の付かない「段物」と呼ばれる純箏曲である。
 晩年は京都でその普及に努め、黑谷の金戒光明寺に墓碑がある。途絶えない参詣者を当て込んで生まれたのが、箏を象ったニッキ煎餅の京銘菓「八橋」という。

『糸竹初心集』(1664年)挿絵

◆流派の発生
 この新箏曲は、新たに開発された三味線と共に、平家琵琶を専門としていた当道座という盲人男性の職能団体の専業として伝承されることとなるが、その音楽は、武家や上流家庭でも鑑賞され、また、修得されて、享受層が厚くなっていった。
・生田流
 当道座の人々も、八橋の作品に倣って作曲したり、伝承曲にも独自性を加える工夫をした。孫弟子の生田検校(1656〜1715)からは「生田流」が誕生し、やがて裾野が広がると共に、京・大阪・中国・九州・名古屋などで地域性を加味した芸系が分派した。
・山田流
 江戸では山田検校(1757〜1817)が出て、従来の「組歌」「段物」以外は、三味線本位の地歌の旋律をなぞるように装飾する立場が多かった箏を前面に出す音楽を打ち出した。それは、当時人気があった一中節や河東節といった三味線伴奏による語り物の浄瑠璃を、箏で演奏する作品の発表であった。この、「箏浄瑠璃」ともいうべきジャンルは、瞬く間に庶民に広がり、式亭三馬の『浮世風呂』にも、山田検校のことや作品のことが、風呂屋の世間話として取り上げられているほどの人気を博した。ここからの流れを山田流という。山田流では箏爪を、先端を間真っ直ぐに切った生田流の角爪から、人の爪型に近い丸爪に改めている。弟子達は、それぞれ独立家元を立て、主に四系統の芸脈に分化している。
・京極流
 京極流は、鈴木鼓村(1875〜1931)が明治34(1901)年に京都で創始した一番新しい流派である。鼓村は高野茂や山下松琴から九州系の生田流箏曲を学ぶと同時に、野田聴松から筑紫箏も習得し、さらに藤村性禅から平家琵琶も習っていた。その上で、国楽の改良を訴えて「國風音樂會」を標榜し、京都の寺町(以前は「平安京の東端」の意味で「東京極」と称したが、現在はその近辺を「新京極」という)で活動を展開。やがて東京に進出して評判を得た。この新箏曲を評価した二条基弘公爵が、発祥の地に因んで「京極流箏曲」と命名した。
 雅楽風箏曲の再興を望んで、楽箏の面影や筑紫箏の名残を残す独奏による弾き歌いを原則とし、平家琵琶の歌い方も取り入れた復古主義的な流派であるが、その音楽に乗せる歌詞が、新体詩なのが特色である。

◆箏曲の近代化
 明治4年、当道座も廃止され、同時に盲人音楽家への幕府の手厚い保護も無くなった。彼等は生活のために、様々の工夫をして、一般家庭や学校教育にも活動の場を広げた。そのために、遊里趣味の艶っぽい歌詞を避け、歌詞改良に取り組むと共に、優雅な箏の音楽を優先した。
 洋楽の浸透につれて、その長所を取り込んだ新作も生まれた。中でも宮城道雄(1894〜1956)の活躍は目覚ましく、新たな邦楽創作の原動力となり、引いては現代邦楽に繋がる素地となった。
◆多弦箏
・十七弦
 洋楽の影響下で、13本の弦しかない従来の箏では、合奏の低音域を補強しきれなくなった。そこで宮城道雄は、大正10(1921)年に、楽器を大型化し、糸も太目にして、四弦増やして「十七弦」を開発した。当初は、宮城曲の低音を補強する伴奏楽器であったが、やがて、流派を越えて用いられ、現在では独奏楽器としても大いに活用されている。
・その他
 早くも明治時代に東京音楽学校の初世山勢松韻は「二十一弦」を開発。これは現在も東京芸大に残っている。また、宮城道雄は、さらに「八十弦」を開発。昭和11年頃、中能島欣一や越野栄松はそれぞれに「十五弦」を開発した。
 近年では1953年に宮下秀冽が「三十弦」を開発。現在もよく演奏されている。1969年には野坂恵子(現、操壽)が三木稔の協力を得て「二十弦」考案。二年後に1本加えて21本としたが名称はそのままにした。23年後の1991年には「二十五弦」を開発した。伝説では、中国秦代の箏の仲間・瑟(しつ)は25弦であったものを兄弟で争って13弦と12弦に分割されたらしく、前者が日本の箏、後者が韓国の伽耶琴になったという。従って、「二十五弦」は先祖返りした楽器であるとも評されている。本日《琵琶行》で用いる箏がこれで、下二点Fから上二点Cに亘る広い音域で演奏される。

飾り箏(生田流の長磯。象牙巻きで周囲に蒔絵や象嵌の装飾。龍尾に房飾)

箏の大きさ競べ (左=13弦・中央=25弦・右=17弦)

二十五弦(奏者は左奥に位置する)

<演 奏>
一.六段の調

―箏曲の原点―
独奏:萩岡 松韻

【解説】
 《六段の調》は、早くから学校教材にもなっていたので、広く知られている。教科書では「八橋検校作曲」と書かれているが、確証がなく、北島検校説もある。
 箏曲は、本来、優雅な歌を独箏で弾き歌う「組歌」として、八橋検校(1614〜1685)が創始したが、やがて「組歌」は箏曲の職格を得るための必修曲となった。そして、「手」だけの基本的奏法を音楽的に修得することを目的として、歌のない「段物」と呼ばれる作品も作曲され、「付物(つけもの)」として指定されるに至った。
 この《六段の調》も段物の一つである。《乱輪舌》を除く段物は、全てその曲名に示された段数の段から出来ていて、初段に短い導入部がある以外は、どの段も52拍子に統一されている。拍子というのは、表間と裏間の一対で一拍子とする和式の数え方で、洋楽風に数えると倍の104拍になる。しかも、段物は一種の変奏曲で、江戸時代の初め、民間に流布していた《すががき》という小曲を隠れテーマとしている。《六段の調》の場合は、それが六通りに変奏されている。このように、既知の曲を隠しテーマとして同拍数で変奏する形式は、16世紀、スペインで盛行していたディフェレンシアスという変奏形式に倣ったのではないか、と早くから指摘されていた。つい最近、皆川達夫氏が「《六段の調》はキリシタンの聖歌であるミサ通常文の《クレド》を箏でパラフレーズしたものである」と、実演付きで発表されて注目を浴びた。
 いずれにしても箏曲の教習課程では、比較的初期の段階で《六段の調》を教えている。しかし、「六段に始まり六段に終わる」と言われるほど奥の深い曲でもある。そのためか、この曲を様々な形で別の作品に取り込むことが多くの作曲家によって試みられている。その一例は後の《秋風の曲》でお聞き頂く。
 ともあれ、古典箏曲の世界では歌が無いと物足りないのか、《六段の調》の前後にも歌をつけて楽しむ演出も生まれた。生田流では、早くから《六段すががき》の名称で、三味線に移曲して前後に歌を付けていたが、山田流でもこれに倣って、前後に歌を付けて、「手事物」風に演奏する演出がある。今日は、珍しいこの演出で演奏する。
【詞章】
〽待つとても、花に寝ぬ夜は無きものを、如何に情(つれ)なき山時鳥。〽幾夜焦がれて待つ閨の戸に、せめて慰む妻琴の、調べ冴えゆく月の影。《六段の調》〽更けて霜夜の狭筵(さむしろ)に、思ひは積もる雪の曙

八橋検校像

『箏曲大意抄』(1779年序文)の《六段の調》の楽譜 (初段から二段の冒頭)

二.秋風の曲

―箏曲のルネサンス―
独奏:横山 佳世子
《六段》打合せ:片岡 リサ

【解説】
 この曲は、八橋検校によって近世箏曲が創始された当初の「組歌」と「段物」を理想として、幕末になって、京都の光崎検校(?〜1853以降)が両者を合体させた形態で作曲した新箏曲である。
 雅楽の面影の残る古雅な歌詞の弾き歌いを生かすために、作曲者は新たに雅俗折衷の調弦を工夫して「秋風調子」と名付けた。光崎はこのアイディアを得るために竹生島の弁財天に願を掛け、百日間参籠したとも伝えられている。
 前奏には段物の《六段の調》の形式を導入しているので、《六段の調》を同時に演奏する事もできる。但し、調弦を「六上がり調子」に変える。このように異曲同士を同時に弾く演出は「打合せ」と呼ばれ、早くから、プロの腕磨きを兼ねた遊びとして行われてきた。本日もこの形態でお聞き頂く。
 歌の部分は、六歌構成を基本とする「組歌」に準じている。しかし、各歌の拍数は古典組歌のように一定ではない。
 作詞は、光崎の後援者でもあった越前の代官・蒔田雁門(高向山人)で、白居易(字(あざな)は楽天)の『長恨歌』を翻案して、二歌ずつ「序破急」に纏めている。
 「序」の第一・二歌では、楊貴妃(719〜756。楊玄琰の娘玉環)が唐の玄宗皇帝に召されて寵愛を一身に受けたこと歌う。
 「破」の第三・四歌では、安禄山の乱で都を追われた玄宗と楊貴妃は、妃の郷里蜀州に逃れ、贅沢な宮廷生活から一転したことを嘆き、さらには妃が馬嵬で殺された悲しみを歌う。四歌では〽残る風音」を描写的に表現している。
 「急」の第五・六歌では楊貴妃を失った後、玄宗が嘆き悲しむ様を歌う。〽霓裳羽衣の仙楽」は玄宗が作曲し、楊貴妃が仙女姿で舞ったという伝説の雅楽曲で、後の作品には美称として登場する。
 早くも1837年には、光崎自身がこの曲の楽譜を、『箏曲秘譜』の名で出版している。 
【詞章】
〔前弾〕

  • 一、求むれど得難きは、色になんありける、さりとては楊家の女(め)こそ、妙なる者ぞかし。
    二、雲の鬢(びんずら)花の顔、実(げ)に海棠の眠りとや、君王(おおきみ)の離れもやらで、眺め明かしぬ。
    三、翠の華の行きつ戻りつ、如何にせん、今日九重に引き替えて、旅寝の空の秋風。
    四、霓裳羽衣の仙楽は、馬嵬の夕べに、蹄の塵を吹く、風の音のみ残る悲しさ。
    五、西の宮南の苑は、秋草の露繁く、落つる木の葉は階に、積もれど誰か払わん。
    六、鴛鴦(えんのう)の瓦は、霜の花匂うらじ、翡翠の衾(ふすま)独り着て、などかは夢を結ばん。

『箏曲秘譜』 (1837年、光崎検校の校閲で出版された《秋風の曲》の楽譜)

三.厳島詣

―箏曲のネオ・クラシック―
独奏:和田 一久

【解説】
 京極流は、前述の通り、鈴木鼓村が、明治34(1901)年に京都で創始した流派である。雅楽風箏曲の再興を望んで、楽箏の面影を残す独奏による弾き歌いを原則とし、その音楽は「古き革袋に新しき酒を盛る」を理想とした新古典主義とも言えるもので、侘びや渋みを大切にしつつ、叙情詩の持つ味わいを表現する。
 演奏に際しては、男子は王朝風の装束を着け、正座ではなく楽座(がくざ)で奏する。
 箏糸はかなり太く、爪は先端が厚い蒲鉾型の角爪を用いて、余韻を重んじてゆったりと演奏する。鼓村は「澄ました泥水の中に豆を一粒落とし、水を濁らせることなく掬いあげる気持ちで弾ぜよ」と教えたという。京極流作品には、心情表現を中心とした抒情的な作品も多数あるが、今回は他の曲と比較して頂く意味で、京極流で「史曲」と分類している《厳島詣》を取り上げている。
 この曲は明治35(1902)年5月に作曲された初期の代表作で、「謡曲の趣を取り入れ平家の声節を生かして作曲した」と鼓村自ら語っている。
 作詞は詩人で劇作家の高安月郊(1869〜1944)で、『平家物語』の「後徳大寺殿厳島詣」に取材している。期待していた昇進を清盛の次男宗盛に先んじられて意気消沈していた後徳大寺(藤原)実定は、家臣の入れ智恵で、清盛お気に入りの厳島神社に参詣した結果、うまく左大将の地位を得たという話を歌い、厳島神社の壮麗さと平家の泡沫の栄耀を、宮居の月影に重ねて表現している。
 この時、後徳大寺は厳島神社で一際美しく、琵琶の上手であった内侍(巫女)の有子に文を送った所、夢中になった有子が、やがて失意の内に入水した。鼓村は四年後に、この悲劇を題材とした姉妹曲《有子》も発表している。
【詞章】
〽都の春は過ぎにけり、平家は花を占めて酔ふ、八重の潮路に袖払ひ、厳島に詣でん。〽面白や海原に、行き交ふものは水鳥の、羽風にはるる霞より、奥に現はるる神やしろ、龍の宮居を今ここに、年も忘るる景色かな。〽廊に連なる燈火の、光照り添ふ夕浪に、影も閃く舞の袖、声は雲居に通ふらん、天津乙女に言問へば、ここも平家の業といふ。〽実(げ)にも平家の世なりけり。日さへ退かるる勢ひに、波も静まる四つの海、松の風だに無きものを、雨か霰か白露か、落つるは何の涙ぞや。〽盛んなる者は衰ふる。定めなき世に誰か漏る、定めなき世に定めある、不朽の栄は何やらん。〽哀れ何処に郭公、呼ぶは現(うつつ)か実定の、夢も短き夏の夜や。月と宮とぞ残りける、宮と月とぞ残りける。

黒谷の金戒光明寺 (八橋検校の墓碑がある。熊谷直実も、敦盛を討った後、ここで出家し、庵を結ぶ。供養塔および一族の墓もある。)

四.須磨の嵐

箏 :萩岡 松韻
ワキ:萩岡 信乃
三弦:萩岡 未貴

【解説】
 この曲は19世紀末の明治30年頃、山田流箏曲家の山登万和が作曲した。万和は、流祖山田検校の孫弟子に当たる二代山勢検校の門人で、明治2(1869)年に山登検校となったが、山田検校の筆頭弟子筋の山登派の家元には数えない。
 万和は、親しかった福城可童(荒木竹翁門下の尺八家)から「美辞麗句を並べた叙景詩や叙情詩ではなく、世間で流行している歴史物語的な詩で箏曲を作ってみては」と勧められてこの曲の作曲に着手したという。折から軍歌の歌詞として親しまれていた七五調の新体詩を採用すべく、1822年刊の竹内節編『新体詩歌』に収録された作者不詳の詩を歌詞にしている。
 歌の内容は『平家物語』や『源平盛衰記』などに描かれる一ノ谷の戦の一場面で、熊谷次郎直実に討たれた若き公達・平敦盛の悲話である。悲壮感に溢れ、コトバに近い発声を使い、独吟部分も多いなど、語り物的な音楽性に富んでいて、淡々と語る生田流の浄瑠璃物とは、かなり趣が違っている。
 〔前弾〕は、恰も本歌取りのように《小督の曲》を踏襲し、最初の〔合の手〕では、激戦の模様を表現する。後の〔合の手〕では、散る花に譬えた敦盛の最期を表現し、伝統的な地歌の「地」を合わせている。
 演奏は箏二面と三弦という山田流の標準的スタイルで、歌い分けをする。なお、山田流の三味線は長唄と同じ細棹で、撥も長唄と同じ平撥を用いる。
【詞章】
〔前弾〕〽抑も熊谷直実は、征夷将軍源頼朝公の臣下にて、関東一の旗頭、知勇兼備の大将と、世にも知られし勇士なり。されば元暦元年の、源平須磨の戦に、功名ありし物語、聞くもなかなか哀れなり。〽その時平家の武者一騎、沖なる船に遅れじと、駒を波間に駈け入れて、一町ばかり進みしを、扇を上げて呼び戻し、互ひに鎬(しのぎ)を削りしが、〔合の手〕〽見れば二八の御顔に、花を粧ふ薄化粧、鉄漿(かね)黒々と付け給ふ。斯かる優しき出立ちに、君はいかなる御方ぞ、名乗り給へとありければ、下より御声爽やかに、我こそ参議経盛の、三男無官の敦盛ぞ、早々首を打たれよと、西に向ひて手を合はす。流石に猛き熊谷も、我が子のことまで思ひやり、落つる涙は止まらず、鎧の袖を絞りつつ、是非なく太刀を振上げて、赦させ給へと斗りにて、敢へなく首(しるし)を挙げにけり。無慙や花の莟さへ、須磨の嵐に散りにけり。〔合の手〕〽これを菩提の種として亡き跡長く弔はん、心おきなく往生を、遂げ給はれと言い遺し、青葉の笛を取り添へて、八島が陣へと送りしは、実(げ)に情けある武士(もののふ)の、心のうちぞ哀れなる.

五.①ロンドンの夜の雨
  ②秋の流れ

―洋楽的新技法の導入―
独奏:片岡 リサ

【解説】
 いずれも、洋楽の長所を積極的に邦楽に導入して、新風を吹き込んだ宮城道雄の作品である。
①《ロンドンの夜の雨》は箏の独奏曲で、昭和28年7月、フランスとスペインで開かれた国際民族音楽舞踊祭に日本代表として参加した宮城が、その帰途に立ち寄ったロンドンで作曲した。一晩中雨が降り、ホテルの高い窓を打って下に落ちていく雨の音や、濡れた道路を走る車の音など、肌を通して感じたロンドンの夜の雨の様子に詩情を掻き立てられ、興の赴くままに作曲したという。洋楽の形式であるABAの三部形式を用い、凝った華麗な曲に仕上げている。特に中間部には、右手が高い糸を細かくトリルをする間に、左手が低い音を倍音で弾く技巧的な聞き所がある。作られた直後、ロンドンのBBCから放送されて話題を呼んだという.
②《秋の流れ》は昭和17年、吉田絃二郎の詩に作曲した新様式の箏伴奏歌曲である。従来通り弾き歌いも出来るが意外に難しく、別途歌手が担当することが多い。
 古典の手事物形式を踏まえ、前奏と後奏に、やや長めの間奏が付く。散歩に出た世捨て人の無常感を秋の情趣に重ねて感傷的に歌う。箏一面だけの伴奏が墨画のように詩趣を描き出す。高音域を拡張した調弦で秋の清々しさも添え,箏のハーモニックス奏法で虫の声を描写し、前奏の冒頭の音型が歌の旋律や伴奏にも登場する。
【詞章】
〔前奏〕〽世を捨人の草の庵(いお)、漫(すず)ろ心に出て見れば何処も同じ秋ながら、心惹かるる山川の、流れに映る薄紅葉、載せて流るる早瀬の水の、〔間奏〕岩を打つ音も侘しや、璧(たま)と澄む秋の水、いざ掬(く)みて帰らん草の道、虫の音も細々と、〔間奏〕山の端に三日の月、渚にも月、我が手にも月、掬めども汲めども、尽きせぬ秋の心や山川の流れ。〔後奏〕

『糸竹初心集』(1664年)の《すががき》と《りんぜつ》(前者は《六段の調》の隠しテーマか。後者は《乱輪舌》の原曲か。)

六.〈みだれ〉による変容

―現代に蘇る古典の名曲―
独奏:横山 佳世子

【解説】
 「十七弦」は、宮城道雄が大正10(1921)年に開発した低音箏である。
 《みだれ》は正しくは《乱輪舌》といい、『糸竹初心集』(1664)に楽譜が掲載されている《りんぜつ》という三段構造の民間で流行していた小曲を、破格の手法(雅楽や能楽での用語としては、「りんぜつ」は「破格」の意)で拡大した段物の一種である。作曲者は八橋検校と思われるが、倉橋検校説もある。
 十七弦箏によるこの曲は、広瀬量平(1930〜2008)の作品である。広瀬自身のコメントを以下に略記する。
 「17世紀日本の偉大な箏曲家八橋検校による箏の名曲に「みだれ」がある。私は、この「みだれ」をもとにして十七絃箏のための作曲をしたいと思っていた。何故ならこれを作曲した1980年までの3年間、私は京都の聖護院町に住んでいたが、それは八橋が住んでいたのと同じ町内であった。近くの黒谷にある八橋の墓にも詣でた折などに、八橋のことをあれこれ思い巡らせていたからである。そして、八橋が感じたであろう東山辺りの佇まいや、物売りの声や近くの社からの笛や寺々の鐘の音などを350年の歳月を越えて共にしたことにより、〈みだれ〉は、分ちがたく私自身の音楽と接合していった。〈みだれ〉の中の幾つかのモティーフを借り、それに反応しつつその時の自分の思いを託していったともいえようか。時には〈みだれ〉がそのまま聴こえたりもするが、それは、いわば私の心の中に幻聴のように聴こえてくる〈みだれ〉でもある。曲は11の部分から成り、私の十七絃のための独奏曲としては二つ目の作品である。」但し、今回は時間の都合で一部を省略して演奏する事をお断り申し上げる。

七.琵琶行―白居易ノ興二倣フ―

―最先端の多弦箏―
独奏:横山 佳世子

 この曲は「二十五弦」の開発者・野坂恵子(現、操壽)が私淑していた作曲家・伊福部昭(1919〜2006)が1999年、その二十五弦のために作曲した独奏曲である。
 曲名の通り、唐の詩人白居易(772〜846)の長歌「琵琶行」の心情を表現しているが、古代中国にかつてあった同弦数の箏(の一種・瑟=筆者注)の面影を残す「二十五弦」に思いを託した、と作曲者は記している。
 彼は45歳で辺境の下級官吏に左遷された。ある秋の夜、長江に友と舟を浮かべると、傍らから老女の弾く琵琶の音が聞こえてきた。舟に招いて身の上を聞けば、今は零落しているが、かつては都で名を馳せた美貌の名手だった様子。不遇の身に悶々としていた白氏は、仙女の楽を聴いたように心が洗われた、と歌う。
 不遇の身を託つ老女の弾く琵琶の音は、ある時はすすり泣くが如く、ある時は大皿の上に大小の粒の真珠をばら撒くが如く、変幻自在で壮絶なものとなり、白氏はその音に我が身を重ね、激しく心を動かされという。
 今回は時間の都合で一部を省略して演奏いたします。