伝統音楽の魅力を探る・レクチャーコンサート Vol.9

尺八楽はおもしろい

—尺八はこんなにも豊かで多彩だったのか—
2013(平成25)年11月15日(金)


<ご挨拶>

 本日はご来場いただきありがとうございます。
 日本の伝統音楽を多くの方々に知っていただき理解を深めていただこうと、平成一八年に始めました「日本の伝統音楽を探る レクチャーコンサート」は第九回目を迎えることができました。
 これも変わらずご支援いただきました真如苑様、お忙しい中をご協力いただきました構成の先生方、ご出演の皆様方、そしてなによりもご応募いただき、ご参加いただい多くの観客の皆様のお蔭と深く感謝の意を表します。
 現在まで開催してまいりました地歌、謡曲、琵琶楽、歌舞伎の下座音楽、文楽・義太夫節、常磐津節、筝曲、雅楽につづきまして、今回は尺八楽を取り上げました。
 尺八は身近に見聞きする割にその歴史と楽曲は正確には知られていません。しかしその歴史は長く、楽器・楽曲の変遷と江戸期に完成された古典本曲、明治以降の箏、三味線との合奏により生み出された多くの名曲の数々があります。その歴史を経て現代は世界的に活躍の場を得ています。
 本日は、その尺八楽の世界を構成・解説を担当される山川直治氏と各地から駆けつけていただいた斯界の気鋭の奏者の方々によって実り多い会となるものと確信をいたしております。
 さて、発会当初から当会の代表をお努めいただいておりました、国際日本文化研究センターの早川聞多氏がライフワークともいうべきお仕事のご都合で副代表にご就任されることになり、思いがけず私がその後を継がせていただくことになりました。
 本会も来年は設立10年目迎える年となります。また、我が国文化における伝統文化の重要さは大きくなってまいると存じます。
 これからも、小さな会ではございますが仕事の重要さを思い、早川前代表の後を継いで、ますます励んでまいる所存でございます。どうか、これまでにも増して皆様方のご支援ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
 それでは間もなく開演です。どうぞ、最後までゆっくりとお楽しみください。

京都和文華の会   代表 権藤芳一

プログラム

尺八楽について                   山川 直治
海童道道曲・・・「古伝巣籠」            寄田 真見乃
根笹派錦風流本曲「流し鈴慕」            善養寺 惠介
地歌・・・・・・「末の契」松浦検校=作曲   尺八=徳丸 十盟
                       三絃=横山 佳世子
都山流本曲・・・「峰の月」初代中尾都山=作曲    永廣 孝山
   —休 憩—
琴古流本曲・・・「虚空霊慕」            徳丸 十盟
明暗対山派本曲・「霧海篪」             酒井 松道
現代曲・・・・・「詩曲Ⅰ」松村禎三=作曲   尺八=善養寺 惠介
                        箏=片岡 リサ
           (司会  南端 玲子)

<解説>  

山川 直治
(日本音楽研究家・元国立劇場主席芸能調査役)

 尺八は管の上端の歌口に息を吹きつけて、音が発せられるフルートと同じノンリードの管楽器で、近代の楽器分類法では気鳴楽器と言われる。名称は中国唐初期の貞観年間(六二七〜六四九)、楽人呂才が十二律に合わせ、十二種の縦笛を作ったうちの標準音とされる黄鐘(こうしょう)の管が一尺八寸だったので、尺八と呼ばれるようになったと伝えられている。竹製の縦笛で日本には七世紀末に唐楽とともに伝来した。雅楽合奏に用いられていたが、平安初期の楽制の改革で、縮小整理が行われたときに編成からはずされた。楽器そのものは、正倉院に残されていて、六孔三節であったことがわかる(古代尺八あるいは雅楽尺八と呼ばれる)。黄鐘にあたる唐代の一尺八寸は、四十三・七㎝であった。中国では長さの基準は王朝によって変わっている。歌口の外側を斜めに削った尺八は中国では姿を消し、宋以降の縦笛の洞簫(どうしょう)は、歌口の内側を小さくえぐっている。
 六孔から五孔へは民間で長い歴史のうちに現れた変化だとも考えられている。室町時代中頃、臨済宗大徳寺派の一休禅師は、尺八(三節切か一節切かは判然としない)を好み、漢詩にも詠んでいる。一休と五孔の一節切尺八を日本に伝えたとも言われる異僧朗庵(ロアン)は親交があり、両人が普化(ふけ)宗、虚無僧(こむそう)の始まりに何らか関与していると思われるのだが…。室町時代末期の豊原統秋(むねあき)著『體源鈔』 (一五一二年刊)には一節切とは明記されていないが五種の寸法の五孔一節の尺八の図と説明があり、楽人や田楽法師が尺八を吹いてとある。『閑吟集』(一五一八)の編者自身も嗜んだであろうが、「 科(とが)もない尺八を 枕にかたりと投げ当てても 淋しや独り寝」という小歌があり、尺八が中世の小歌の伴奏に使われていた。いろいろな長さの一節切尺八のうち、黄鐘切(おうしょぎり)と呼ばれる一尺一寸一分(三十三・六㎝)が標準となり、近世初期には一節切尺八、箏、三味線の独習入門書中村宗三著『糸竹初心集』(一六六四)も刊行された。それによると一節切の起こりについて、異人より宗佐に伝えられ、その五代目に織田信長の家臣だった大森宗勲が現れて中興の祖となったとある。楽譜は「フホウエヤ」と片仮名で記された孔名譜であり、同名曲があることから箏、三味線と合奏したと考えられる。虚無僧尺八についての記述もあり、一節切と虚無僧尺八は併存していたが、一節切は十七世紀末を最盛期として、十八世紀には急速に衰えてしまう。その原因として、短く細い一節切は音域が狭く、音量に乏しく、顎(あご)や指の遣い方によるメリ、カリの音程変化も虚無僧尺八に比べ自由ではない。十七世紀後半になると、都会の世俗音楽は陰音階化し、それに適応し難かったこともあげられる。また中世から「ぼろぼろ」「梵論字」などと呼ばれていた半僧半俗の漂泊集団が、恐らく三節切の尺八を携えた「 薦僧(こもそう)」となり、さらに虚無僧と称し、普化(ふけ)宗を掲げ、尺八を法器とする特権的グループとして組織化されたこともある。虚無僧の主張の根拠は、徳川家康が定めたとされる「慶長掟書」(慶長十九〈一六一四〉)だが、新井白石はじめ寺社奉行にもその存在を疑う者がいた。しかし戦乱や大名の改易などにより多数の浪人が出て、虚無僧集団に身を投ずることがあって、幕府側も対策上半ば黙認した。入宗は士分に限られ、三具(尺八・天蓋・袈裟)、三印(本則・会印・通印)が与えられ、虚無僧寺を拠点に諸国を托鉢行脚した。
 延宝五(一六七七)年に幕府はキリスト教禁圧と浪人取締りのこともあって、宗門改め、寺院本末帳の作成を施行し、初めて公式に虚無僧諸派に「覚」が交付され、一月(いちげつ)、鈴法(れいほう)両寺を触頭(ふれがしら)として普化宗を公認した。京都の明暗寺(みょうあんじ)は関東の両寺に対抗すべく、宝永二(一七〇五)年紀州由良の臨済宗興国寺を本山として、関西以西を統轄した。
 尺八の由来で引用されることの多い『虚鐸伝記国字解(きょたくでんきこくじかい)』(山本守秀解註 寛政七〈一七九五〉年刊)によれば、唐時代末期、臨済宗の祖臨済義玄のもとにいた普化禅師は鐸(大きな鈴)を振り鳴らしながら「明頭来明頭打 暗頭来暗頭打 四方八面来旋風打 虚空来連架打」という四句の偈(げ)を唱え、街市を教化して歩いた。その徳を慕う張伯によって鐸音が尺八の曲(『虚鐸(鈴)』)に移され、代々伝えられた。十六代目の張参のとき、日本より宋に留学した覚心(のちの法燈国師)がこの曲を授かり、建長六(一二五四)年四居士を連れて帰国した。覚心は紀州由良に西方寺(のち興国寺)を創建したという。また覚心の高弟の寄竹(きちく)は托鉢行脚に出て、伊勢朝熊(あさま)山の虚空蔵堂で仮眠していたとき、霊夢を見、その夢の中の妙音を尺八に移して『霧海篪(むかいぢ)』と『虚空』の二曲を作った。今日でも『虚鈴』とともに尺八の根元(こんげん)の曲として「三虚霊」(琴古流では「古伝三曲」)と呼ばれて尊重されている。寄竹の没後、弟子の明普が京都白川に虚霊山明暗寺を建て、寄竹を開祖虚竹禅師とした。四居士のうちの宝伏は弟子を連れて東国を行脚するが、下総国小金で没する。その地に弟子の金先(きんせん)が金龍山一月寺を建てた。もう一人の弟子活聡(かつそう)が武蔵国に廓鈴(かくれい)山鈴法寺を建てたとのこと。虚無僧の頽廃、普化宗の危機的状況のもとに書かれたと言われ、『虚鐸伝記』なる底本は偽作とされ、以上の史実のほどは疑わしい(中塚竹禅著『琴古流尺八史観』)。虚無僧寺は十六派に分かれ、十八世紀後半には全国に七十以上あったという。
 禅宗の一派普化宗にとって尺八吹奏は「吹禅(すいぜん)」であり、一般人の尺八吹奏は禁じられた。だが、経済的事情もあって実際には百姓町人達への尺八指南は行われ、音楽としても普及するようになった。薦僧と呼ばれていた頃は、五孔三節のすんなりした管が用いられていたと推測されるが、十七世紀後半、普化宗が確立された頃、虚無僧尺八は根竹を用いるようになり、その五孔七節の太く長い管は、また護身のためにも格好のものであった。根元(ねもと)の方を管尻としているため、管尻の方が上端の歌口より内径が狭(せば)まっている。そのため音が明けっ広げではなく、幽邃(ゆうすい)な趣をもっている。簡素な構造ながら噪音的要素も含め多彩な技法が可能であり、しかも音幅もある。虚無僧が吹いていた宗教的な尺八本来の曲を「本曲」と呼ぶが、精神を集中し、気息を整え、自然的な強弱・緩急の調べを奏し得る、独奏を主とした自由リズムで内面的な音楽を培うのにまさに相応しい楽器であった。しかし、音楽としてより宗教性に比重があり、しかも口頭伝承が重んじられた。伝承、伝播の過程で当然個人及び地域の違いが生じてくる。一寺一律という言葉があるほどである。ほとんどの本曲の作曲年代、作曲者は明確ではなく、曲はさまざまに枝別れし、またいろいろな結合がなされ、変形を重ね実に錯綜している。「無名性の音楽」といわれる由縁である。そのような状況において、江戸で一月寺、鈴法寺の吹合(ふきあわせ)(尺八指南役)であった初世黒沢琴古(一七一〇〜七一)は、各地の虚無僧寺に伝えられている本曲を収集整理して琴古流本曲三十六曲制定の基礎を固めた。二世琴古のとき琴古流と称されるようになり、二世三世親子は市中に吹合所と製管所を数箇所もつ繁昌振りを示し、「ロツレ式」の楽譜も出された。
 一方、「慶長掟書」を振りかざして乱暴狼藉を働く虚無僧も多く、幕府は遂に弘化四(一八四七)年に「掟書」を否定する内容の触書を発した。そして明治四(一八七一)年、明治新政府によって普化宗は廃止された(同時に、箏、三味線を専門とする盲人音楽家達の自治組織「当道職屋敷」も廃止された)。そこで琴古流の吉田一調と二世荒木古童は尺八を法器としてではなく、楽器として吹く許可を政府に請願し認められた。それにより一般の人々も吹奏可能となり、演奏人口が増加した。琴古流では、三十六曲の本曲はあるが、尺八本来の曲ではない「外曲」として江戸時代の長唄に変えて、箏、三味線との三曲合奏に力が注がれ、合奏に適した楽器改造、合奏に必要なリズム、テンポを表記した楽譜改良が行われた。また関西では幕末に明暗寺の役僧だった近藤宗悦が、地歌、箏曲と盛んに交流し勢力を示したが、その影響を少なからず受けつつ、洋楽の知識も取り入れて明治二十九(一八九六)年都山流、大正六(一九一七)年竹保流、上田流などの新流派が創立された。それぞれに自流の本曲が作曲されたが、それらと区別するために虚無僧達が吹いていた本曲を「古典本曲」と呼ぶようになった。その名称が一般化するのは、昭和四十年頃よりである。外曲に比重が移り、音楽的に発展がみられるなか、本曲を大切にし、虚無僧尺八の伝統を守ろうとする人達もいた。明暗寺の役僧だった尾崎真龍は幕末、勤王派として働き、幕吏に捕えられ幽閉される身となったが、その伝承曲は勝浦正山(一八五六〜一九四二)によって「明暗真法流(みょうあんしんぽうりゅう)」として受け継がれ、今も竹保流のレパートリーとなっている。明暗寺廃寺の約十年後仏教界の動きのなかで虚無僧復活の気運も生じ、明治二十三年「明暗教会」が設立されると、名古屋出身で西園流を学んだ樋口対山(たいざん)が訳教(尺八指南役)となった。対山は西園流から移入した本曲のほか琴古流や奥州系、九州系などの本曲を収集、整譜して「明暗対山派」として現在の明暗寺所伝曲三十三曲(『本手調子』を含む)の基礎を作った。明治以前の明暗寺で伝えられていた明暗真法流、東北の布袋(ふたい)軒、松巌(しょうがん)軒、蓮芳軒、弘前の根笹派錦風(ねざさはきんぷう)流、越後明暗寺や九州博多の一朝(いっちょう)軒の所伝曲、浜松普大寺(ふだいじ)の流れを汲む西園流本曲、それに琴古流本曲を加えると百五十曲をこえる古典本曲が伝承されてきた。
 明治以降、近代において日本の音楽教育、演奏や作曲でも洋楽主導であり、洋楽に追従し、尺八古典本曲のような存在は余り省みられなかったが、現代の自分達の表現を求めようとしていた作曲家達は独自の奥深い表現世界をもった古典本曲に注目した。昭和四十年代頃より、諸井誠、廣瀬量平、武満徹、三木稔ほかが次々古典奏法を活かした作品を生み出し、尺八は世界的に活躍の場を広げた。単に音楽にとどまらず、そのような表現を培った禅的世界への関心をも深めることとなった。作曲家の要望に応ずるのみでなく、積極的に作曲家達を誘導した、とらわれのない自由な音楽意識と高い技術を備えた演奏家達も大きな役割を果した。

古代尺八「信西古楽図」 (平安末期成立か)より一節切(ひとよぎり)「人倫訓蒙図彙」(じんりんきんもうずい) (1690年刊)より薦僧 「閑田耕筆」 (伴蒿蹊〈1733─1806〉)

虚無僧尺八 「人倫訓蒙図彙」(じんりんきんもうずい)より三曲合奏図 「歌系図」(1782年版行)

曲目解説
海童道道曲『古伝巣籠(すごもり)』

 卓越した技量をもち独自の哲理を唱えた海童道祖(わたづみどうそ)(一九一一〜九二)は本曲と言わず、道曲と称した。『鶴の巣籠(すごもり)』は、鶴の親子の情愛を描き、『鹿の遠音』とともに、宗教性の強い本曲中にあって、珍しく標題音楽的に動物を主題とし、描写的表現をもった曲。文楽、歌舞伎の名作『仮名手本忠臣蔵』九段目で虚無僧姿の加古川本蔵が吹く曲としても広く知れ渡った。胡弓の本曲にも同名曲があるが、尺八同様起源や伝承は明白ではなく、いずれにしろ影響関係はあった。実に多くの変種が現れたが、この曲はそのうちでも古い姿を伝えるものであろう。子育て、巣立ち、親鳥の死をコロコロ、タマ音、三絃の巣籠地(すごもりぢ)(ツルテンツルテン)のような音型などを使いながら表している。

根笹派錦風流『流し鈴慕』 

 青森県には、虚無僧寺はなかったが、津軽に根笹派が伝わり、一説には名手乳井月影(にゅういげつえい)が元治元年(一八六四)、関白近衛忠熙(ただひろ)の御前で『松風』を演奏して、錦の袋に入れた尺八を下賜されたことから、錦風流を称するようになったという。「鈴法」「臨門」とも書かれたが、一節切で吹かれていた「恋慕」が、普化宗の言葉のように変転し、普化禅師の鐸(鈴)音を慕うと解釈されるようになったとも言われている。「鈴慕」は托鉢のとき、流しの曲として吹かれ、一寺一律と言われるほど、各地にさまざまな「鈴慕」が伝承された。この曲は奥州系の鈴慕のスタイルを備え、「高音(たかね)」をクライマックスとして、哀愁をおびた曲である。横隔膜を使って強弱をつけ持続音を刻む「コミ吹き」は根笹派の一つの特徴である。

地歌『末の契』 松浦検校=作曲

 文化・文政時代に活躍し、京風手事物を確立した松浦検校(?〜一八二二)が三絃で作曲したもの(浦崎検校によって箏の手が付けられている)。形式は前歌―手事―後歌で、寄る辺なく恋に迷う身を蜑小舟(あまおぶね)にたとえ、違(たが)うことのない契りを願う心を歌っている。尺八にとって、地歌、箏曲は外曲であるが、普化宗が廃止され、尺八も楽器として一般にも開放されると、三絃、箏、胡弓との三曲合奏は、胡弓が尺八に変えられた。それはまた激動する時代の流れのなかで、三曲界を支えることともなった。三曲合奏は「三絃を骨、箏を肉、尺八を皮」となぞらえる。本曲はほとんど自由リズムであるが、三曲合奏においては、絃と息を合わせ拍節的に吹くことが主体となる。
 <歌詞> 
 作詞=五代目三井次郎右衛門高英(号 後楽園・四明居)  
 白波の、かかる憂き身と知らでやは、わかに見る目を恋すてふ、渚に迷う蜑小舟、浮いつ沈みつ寄る辺さへ、荒磯伝ふ葦田鶴の、鳴きてぞともに。

 〔手事〕  
 手束弓(たつかゆみ)、春を心の花と見て、忘れ給ふな、かくしつつ、八千代経るとも君在して、心の末の契り違(たご)ふな。

都山流本曲「峰の月」 初代中尾都山=作曲

 都山流の開祖中尾都山は、十三歳の頃、宗悦流の尺八を学んだが、近藤宗悦と合奏したこともある地歌の名手であった母の指導を受けながら独習し、十七歳で明暗教会の虚無僧の資格を得ている。この曲は都山が戦争で傷ついた門人達を慰めるため、各地を巡っていた昭和二十一年夏、三重県の加太で遠く錫杖ケ岳にかかった満月を見て感動し、作曲した。曲は二段よりなり、初段は月の出る前の幽暗な趣を余り音程変化なく表し短く、乙のレが静かに長く吹き出される。二段ではさしのぼる月、中天で皓々と輝き、峰の姿を映し出す様を高音域まで使い、さまざまな技法で音色の変化を交えつつ描いている。随所に都山流独自の旋律型が現れる。

琴古流本曲『虚空鈴慕』

 覚心の弟子寄竹(明暗寺の開祖虚竹禅師)が托鉢行脚のとき、霊夢により『霧海篪』とともに授かったと伝えられる。元は『虚空』と称した。琴古流では『真虚霊』、『霧海篪鈴慕』とともに「古伝三曲」とされ、古典本曲の根元として重んじられている。琴古流へは初代黒沢琴古が、十九歳の享保十三(一七二八)年長崎正寿軒の一計子より伝来したと孫の三世琴古の『琴古手帳』に記されている。曲はA-B-C-B’の四部からなる構成で、A,B,の冒頭には虚空のモチーフである「ツレレレ」よりなる旋律型が奏され、Cに高音域で展開される「高音」が配されている。BとB’(竹友社 川瀬順輔著の譜本には初段、二段と付記)は合奏可能である。「コロコロ」が多用される。形式感があり、明澄な曲調である。

明暗対山派『霧海篪』

 『嘘鈴』、『虚空』とともに「三虚霊」と呼ばれ、尊重されている。篪(ち)は中国古代の笛のこと。小船に乗り海上で明月を眺めていると、にわかに霧に蔽われ、霧中より管の妙音が聞こえたという夢幻的な情景を表している。三つの部分より構成されている。強く吹き込み音が自然に減衰して行く楔吹(くさびぶ)きで始まり、トリル、下行旋律型、「ホウウ」(竹保流のフホウ式で表記)による旋律型、「ホ、ル」の反復連続されるフレーズなど、いくつかのパターンが現れる。特に第三部分はそれらが結合したほぼ同じ旋律の流れが繰り返される。中間の第二部分の「高音」では、トリルや連続音を細かく打ち刻む手法が使われている。

現代曲『詩曲Ⅰ』 松村禎三=作曲

 松村禎三(一九二九〜二〇〇七)は京都市出身で、東京藝術大学の作曲科教授を勤めた。密度の濃い創作活動、遠藤周作の小説『沈黙』に基づいたオペラの作曲などで一九九四年にモービル音楽賞を受賞している。邦楽器のための作品は、数は少なく、いずれもソロ(尺八、箏、十七絃、二十五絃箏)ないし二重奏曲(尺八と箏、篠笛と琵琶)であるが、伝統的な奏法を充分活かしつつ、新しい感覚に彩られている。この曲は昭和四十五(一九七〇)年、大阪万博の松下電器館で初演された。箏のソロに始まり、続いて尺八のソロとなる。曲全体では重奏部分より、それぞれのソロ部分が多く、それぞれの楽器の古典である箏組歌や尺八古典本曲の要素を織り込みつつ、古典的な趣をもった詩情溢れる楽曲としている。作曲者は「古典に詣でるつもりでこの曲を書いた」と言っている。

尺八の技法

*流派によって、名称、奏法に違いがある。

幹音(かんおん)

全孔をふさいだ筒音から、指孔を順次全開して得られる音。尺八の基本音。幹音以外の音(派生音)は、指孔の開け方(半開、1/4開など)や歌口に息を吹き込む角度(アゴを出したり引いたりするー上げ下げ)によって得られ、オクターブ十二音以外にも、繊細な音程変化(微分音)に対応でき、なめらかな音の動きが可能である。

乙(おつ)

 音域をしめす。第一オクターブのこと。琴古流では呂(りょ)という。

甲(かん) 

音域をしめす。第二オクターブのこと。それより上の音域は大甲(だいかん)という。

メリ

アゴを下げたり、指孔を部分的にふさいだり(カザシ)して音を半音あるいは一音低くすること。下げ幅により、大(おお)メリ、中(ちゅう)メリなどがある。メった音をさらにメることを「メリ込み」という。

カリ

アゴを上げて、音を上げること。大きくカることを「大カリ」という。

ナヤシ

アゴをさげて約半音ないし一音低い音から吹き出して、次第にアゴの位置を戻して幹音に上行するポルタメント奏法。

スリ上げ・スリ下げ

隣り合う音に上行、あるいは下行するとき、指孔を擦るようにしてなめらかに移行するポルタメント奏法。五線譜ではスラーで示される。スリ上げが多い。


ユリ

メリ・カリの反復運動によって、持続音を波状に揺らして変化をつける奏法。縦ユリ(アゴを上下に動かす)、横ユリ(アゴを左右に動かす)、廻しユリ(アゴを円をかくように廻す)などがあり、ヴィブラートに近い吹き方もある。


コミ吹き

横隔膜を使って息をコントロールし、強弱をつけて持続音を刻む奏法。根笹派錦風流で多用される。竹保流では「息ユリ」という。


フリ 

アゴを素早く下に振って音を低める。琴古流ではユリの開始に、明暗対山派では「押し」や「打ち」の直後におこなわれることが多い。


シオリ

延ばしている音を、アゴを下げてメり、再び元の高さにもどす奏法。


アタリ

延ばした音に瞬時に音高変化を与えたり、ユリを加えアクセントをつける奏法。グロッタル・トリルの一種。


オトシ

音の末尾を半音あるいは一音下げて切る。根笹派錦風流では「チギリあるいはツギリ(継色)」という奏法がある。


タマ音(ね)(タバ音) 

玉音(束音)とも書く。舌や喉の奥(口蓋垂(こうがいすい))を使ってトレモロ的な変化をつける奏法。フルートのフラッターに近い。


ムラ息

息を強く吹き込むことにより生ずる噪音を活かした奏法。短い音の場合は「ソラ音」という。ムラ息より息音を多くした奏法を「カザ息」という。


押し

閉じた孔を瞬時に開けて閉じる手法。連続音に刻みをつけるトリル的奏法。各音によって押す音が決まっている。「押し」の連続を「押しおくり」という。明暗真法流や竹保流では「揺り」という。


打ち

開いている特定の孔を打つように瞬時に閉じて開ける手法。連続音に刻みをつけるトリル的奏法。


オクリ

連続音に瞬時孔を開閉して異なる高さの音を挟み込み刻みをつけるトリル的奏法で、「押し」、「打ち」を総称して「送り指」、「刻み指」ともいう。


コロ音

一、二孔を交互に打って「コロコロ」と吹く、トレモロ的奏法。高音域では一孔を打って「カラカラ」と吹き、「カラ音」という。俗に「首振り三年、コロ八年」という。


虚吹(きょすい)

ユリやコミなどの装飾をつけず、静かにやわらかくまっすぐに吹き、自然に消えてゆく奏法。
棒吹き 
全くユリのない音。都山流で使われる用語。


楔(くさび)吹き

強く吹き込みヴィブラートをつけずに長く延ばし、自然に消えるように吹く。


笹吹き

両端が細くなっている笹の葉状に弱―強―弱となるように吹く。


鼓吹(つづみぶ)き

鼓の胴の真ん中が細くなっているように、強く吹き込み、弱め再び強めて吹く奏法。神如道生曲『無住心曲』に使われている。


重音(じゅうおん)

不協和な二つ以上の音を同時に鳴らす奏法で、現代に開発された奏法。


タンギング

フルートのように舌を使って音を区切って吹くこと。古典作品ではなめらかに奏するレガート奏法が主体で、使われていなかったが、現代作品では使われるようになった。

尺八楽略年表

一七五六(天平勝宝八)

東大寺献物帳に五管の尺八の記事あり、正倉院の尺八と符合。

一七八〇(宝亀十一)

西大寺資財流記帳の大唐楽器一具の中に合計九管の尺八。

一八〇九(大同四)

太政官符雅楽寮人員表では、唐楽師十二人中、尺八師は一人。

一八四八(嘉祥元)

唐楽生の尺八生三人を二人に減ずと。慈覚大師、唐の尺八を持って帰国。

一一五八(保元三)

後白河帝の内裏で尺八再興演奏。以後雅楽尺八は断絶。

一二五四(建長六)

禅僧覚心(学心)宋より普化尺八を持ち帰る。〔伝説〕

 十五世紀中頃

南中国福州出身の朗庵(蘆安)一節切を伝える。〔伝説〕

一五一二(永正九)

楽書『体源鈔』(豊原統秋著)成る。

一六〇八(慶長十三)

大森宗勲一節切の譜本『短笛秘伝譜』を著す。

一六一四(慶長十九)

徳川家康「慶長掟書」発行?(延宝の頃の偽作か)

一六七七(延宝五)

幕府虚無僧統制のための令達。一月寺、鈴法寺「触頭」となる。

一六六四(寛文四)

『糸竹初心集』(中村宗三著)成る。

一七〇五(宝永二)

明暗寺、興国寺より「本寺証文」を受ける。

一七二八(享保十三)

黒沢琴古(琴古流流祖)長崎正寿軒で、一計子より古伝三曲を伝授。

一七五九(宝暦九)

町人百姓に竹名授与の禁止令を一月寺・鈴法寺に通達。

一七六八(明和五)

初代黒沢琴古、尺八吹合所(指南所)を開設。

 明和頃

虚無僧の編笠(天蓋)深くなる。

一七七一(明和八)

初代黒沢琴古死去。

一七七九(安永八)

山本守秀、尺八書『虚鐸伝記国字解』を著作。寛政七年(一七九五)刊行。

一八四七(弘化四)

虚無僧の特権を否定する触書発せられる。

一八七一(明治四)

普化宗・虚無僧廃止令。

一八八一(明治一四)

政府托鉢を許可。

一八九六(明治二九)

都山流流祖中尾都山、大阪市天満で都山流を創始。

一九〇四(明治三七)

初代中尾都山、「青海波」「慷月調」「岩清水」など都山流本曲を作曲。

一九一七(大正六)

藤田松調門人酒井竹保、独立して竹保流樹立。都山流から独立した上田芳童(後に芳憧)上田流樹立。

 昭和初期

工学博士竹内寿太郎と琴古流尺八家川本晴朗、七孔尺八を開発。

一九三五(昭和一〇)

大倉喜七郎ら尺八とフルートを折衷した金属製有鍵縦笛オークラウロ発表。

出演者

<尺 八>  酒井 松道

 昭和十五年、竹保流尺八宗家三男として大阪で生まれる。
長年、古典尺八本曲を研究。百五十曲余の本曲を有し、そのすべてが継承者をたどれるのも大きな特徴である。現在、竹保流尺八宗家。他に明暗虚竹禅師奉讃会理事長、虚無僧研究会本部顧問、大阪三曲協会理事等を務めている。平成十八年度文化庁芸術祭大賞(レコード部門)受賞CD「酒井松道・鶴之巣籠五態」(コジマ録音)。自身としては尺八リサイタルの演奏により、平成二十年度文化庁芸術祭大賞(音楽部門)受賞、同年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞等がある。


<尺 八>  善養寺 惠介

東京藝術大学邦楽科卒業、同大学院修士課程修了。在学中は山口五郎師(人間国宝)に師事。
平成十一年、第一回リサイタルを開催以来、現在に至るまで11回を重ね、平成二十年のリサイタルでは文化庁芸術祭新人賞、平成二十一年では優秀賞を受賞。平成十二年二月、尺八教則本「はじめての尺八」(音楽之友社刊)を執筆。
平成十四年五月、日本伝統文化振興財団奨励賞受賞。虚無僧尺八を中心とした演奏活動のほか、関東各地にて尺八教授活動を行っている。


<尺 八>  徳丸 十盟

 幼少より父に琴古流尺八の手ほどきを受ける。昭和五十九年東京藝術大学音楽学部邦楽科尺八専攻卒業。同六十三年東京藝術大学大学院音楽研究科修了。在学中、山口五郎(人間国宝)に師事。卒業後、直門となり引き続き師事。平成元年より数期にわたり同大学非常勤講師を務める。平成十二年第一回ビクター邦楽技能者オーディション合格。同十九年(第五十八回)芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。同二十年江戸川区文化奨励賞受賞。国際交流基金の派遣、助成などによる海外公演多数。現在、竹盟社所属。「曠の会」同人。雅道会主宰。東京藝術大学非常勤講師。


<尺 八>  永廣 孝山

昭和四十五年生まれ。十歳より故・小柳滸山師に師事。十五歳で都山流尺八准師範試験に首席登第。十八歳で師範検定試験に首席登第。NHK邦楽技能者育成会35期修了。NHK邦楽オーディション合格。都山流尺八コンクール全国大会金賞・文部科学大臣賞を三度受賞。「咲くやこの花賞」受賞。「大阪文化祭奨励賞」を二度受賞。「大阪文化祭賞」を二度受賞。「舞台芸術奨励新人賞」「文化庁芸術祭新人賞」など数多くの賞を受賞。
邦楽界に新風を吹き込むべくラジオ、テレビ、ステージ等で活躍中の新進気鋭の尺八演奏家。


<尺 八>  寄田 真見乃

平成二年京都に生まれる。平成十一年、都山流尺八を三好芫山氏に師事。十八年、最年少で都山流尺八「師範」合格。同年、琴古流尺八・仏教尺八・禅尺八及び尺八楽全般を谷口嘉信氏に師事。二十一年、東京藝術大学音楽学部邦楽科尺八専攻入学。二十二年CD「仏教尺八・禅尺八」を発刊。二十三年ヨーロッパ・ジャパンフェスティバルに特別ゲストとして招待される。二十四年、公益財団法人青山文化財団「青山音楽賞・新人賞」受賞。二十四年(第67回)文化庁・芸術祭参加。(翌68回も参加)。二十五年、東京藝術大学卒業。同年、NHK邦楽オーデション合格。


<三 絃>  横山 佳世子

十歳より故沢井忠夫に師事。
東京藝術大学卒業後(在学中には「常英賞」受賞)、同大学院修士課程修了。
平成二十年度「京都市芸術文化特別奨励者」認定。日本伝統文化振興財団の平成二十年度「邦楽技能者オーディション」合格、合格記念主演CD「生田流箏曲 横山佳世子」リリース。平成二十年度「文化庁芸術祭‐新人賞‐」、平成二十四年度「同─優秀賞─」受賞。平成二十四年度「京都芸術新人賞」受賞。古典から二十五絃箏も含めた現代音楽まで、幅広いレパートリーを持ち、積極的な演奏活動を行う。


<>  片岡 リサ

大阪音楽大学卒業、同専攻科修了。
平成十三年度文化庁芸術祭新人賞を洋楽邦楽問わず史上最年少で受賞をはじめ、平成二十三年 第21回出光音楽賞受賞など、伝統音楽の枠を超えた音楽性が様々なジャンルで高く評価されている。
また「歌」にも定評があり、箏曲の古典「地歌」だけでなくベルカント唱法での弾き歌いも行い、海外公演においても現地メディアから高い評価を得ている。
現在、大阪音楽大学、同志社女子大学、兵庫教育大学講師。


<構成・解説> 山川直治

(日本音楽研究家・元国立劇場主席芸能調査役)

1943年生。早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。国立劇場演出室にて邦楽公演の企画・制作、調査資料課などの担当を経て主席芸能調査役となる。現在フリーで日本音楽研究に携わる。日本琵琶楽協会コンクール審査員、(財)清栄会の奨励賞、公益財団法人日本伝統文化振興財団賞、東燃ゼネラル音楽賞の選考委員などを努める。著書に『邦楽の世界』、編著に『日本音楽の流れ』など。

<司会> 南端 玲子