伝統音楽の魅力を探る・レクチャーコンサート Vol.4
“歌舞伎のオーケストラ”下座音楽の魅力を探る
歌舞伎の下座音楽はおもしろい
2008(平成20)年8月19日(火)
<ご挨拶>
本日はご来場いただきありがとうございます。
「京都和文華の会」は日本の伝統文化に様々な形でアプローチし、多くの方々にその良さを伝えていければと、伝統文化と京都が好きな有志が集まり、2005年秋に任意団体として発足いたしました。
その最初の試みとして日本の文化を構成する柱の一つである伝統音楽を取り上げ、特に次代を担う方々にその良さを知っていただくプログラムを実施したいと考えておりましたが、主旨にご賛同いただいた共催者でもある真如苑の社会貢献事業として位置づけていただき「日本の伝統音楽の魅力を探る レクチャーコンサート」のシリーズを始めました。
第1回の「地歌」、昨年5月の「謡曲」、11月に開催の「琵琶楽」とも好評で、「伝統音楽がこんなにも面白かったのか」と、の多くのお声をいただいてまいりました。
第4回目の今回は、少し趣を変えて人気があり代表的な伝統芸能である「歌舞伎」から、それを支える“歌舞伎のオーケストラ”とも言われる下座音楽を取り上げました。構成・解説は立命館大学アート・リサーチセンターの赤間亮先生に担当をいただき、永年の蓄積を生かして聴き見せる舞台を作っていただきます。ご出演者には関西を地盤に活躍されている斯界の第一級の方々をお迎えすることができ、また願ってもない事に中村壱太郎さんに特別にご出演いただくことになりました。
これも本日ご来場の皆様はじめ、関係いただいている皆様のご支援、ご協力の賜物と感謝いたします。
この催しが、伝統音楽の魅力を皆様方にお伝えすることができ、その伝承に少しでもお役にたてることができればと念願しております。
それでは間もなく開演です。どうぞ、最後までゆっくりとお楽しみください。
京都和文華の会 代表 早川聞多
<プログラム>
1 総合解説
2 楽器の説明
3 大太鼓の演奏
休 憩
4 曲の演奏
5 歌舞伎舞踊組曲
特別出演
中村壱太郎
演 奏
中村寿慶(鳴物・コーディネーター)
藤舎悦芳(鳴物)
藤舎華生(笛方)
杵屋浩基(三味線)
今藤敏行(三味線)
構成解説
赤間 亮(立命館大学教授)
司 会
南端玲子
<解説>
【歌舞伎の下座音楽】
下座音楽は、歌舞伎が上演されるにあたって、演奏される音楽の内、語り物である浄瑠璃以外の囃子方の担当する音楽の総称であり、基本的に下手の黒御簾の内で演奏されるものである。いわば音楽劇である歌舞伎のオーケストラにあたる。舞台上に姿を現わし雛壇の上に座って演奏するのは、「出囃子」と呼び、特殊な形式である。
歌舞伎は、お国の歌舞伎踊りより始まったとされている。そのバックで音楽を奏でる役割を担ったのが「囃子方」であり、歌舞伎以前の芸能である能楽を摸しているため、笛、大鼓、小鼓、太鼓(四拍子という)が楽器として使われていた。歌舞伎の音楽が能とはっきりと区別できるようになる切っ掛けは、遊女歌舞伎時代における三味線の導入であった。軽快な音を奏でる三味線が取込まれ、その有無がその後の芸能の性格を決定づけたと言ってよい。
寛政6年(1794)1月江戸河原崎座
早大演劇博物館118-0091
文化14年(1817)3月「芝居大繁昌之図」
早大演劇博物館118-0001,0002
・下座の位置
さて、囃子方の演奏場所は、初期歌舞伎では、いわば隠れる場所がなく、観客席から見える正面奥に並んで座っていた。おそらくは1740年前後の時代に、舞台装置が発達するに従い、正面での演奏が邪魔になって陰に隠れるようになっていったたらしい。この時期、人形浄瑠璃の全盛期において人気を奪われた歌舞伎が様々な工夫や改革をしていた大坂の歌舞伎界において、舞台機構の様々改良をする中で、その位置の移動がおきたと予想できる。そして、上方に従って江戸でも舞台向かって右手(上手)の出入り口の脇に移ったようである。
「下座」とはこのように舞台の中央ではなく、脇の下がったところにあるところから出た呼称のようで、この時代から「囃子方」とも「下座」とも呼ぶようになっている。現在、「下座音楽」と音楽総体に対する呼称するのは、「下座の音楽」を縮めたものが一般に定着したもので新しい用語であり、幕内ではこの言葉は使わず、通常「囃子方」「お囃子」と呼んでいる。
丁度この舞台上手に移った時期には、江戸において舞踊の大流行とともに、長唄の急速な進歩が遂げられている。舞踊劇における浄瑠璃の演奏は、逆に「出語り」と呼ばれる形式をとるようになり、囃子方の演奏も下座の外、つまりは舞台上で演奏する場合に「出囃子」と呼ぶことになるのである。
この上手の位置から現在の下手の「黒御簾」の内に移るのは、文化終り頃(1817)の錦絵に上手下手両側に囃子方が位置するものがあるため、このころから下手側に移り始め、天保の改革による猿若町への移転とともに下手へ定着したもののようである。一方、上方では、文政二年の南座の劇場図面(「演芸画報」大正15年1月 伊原青々園紹介)で明らかに、上手臆病口の脇に囃子方の座があり、さらに下って、明治四十年代頃までは、やはり上手の出入り口の脇に仕切り格子を立てて演奏していたという。おそらく、松竹による歌舞伎興行の全国規模の統合があり、大正期以降、江戸式の下手黒御簾内という形が定着したものであろう。
・下座の曲目と附帳
1800年前後に出版された演劇書には、すでに数多くの囃子の曲目の説明がある。これらに上げられた曲目は、その名称が現在と違っている場合ものもあり、同じ名称でも、内容が現在と異なる場合もあるが、約300種類が記録されている。現在に残る曲目は、800曲を越えると言われおり、ほぼ明治期までに定着したようである。遡れば、元禄時代の粗筋本である「絵入狂言本」にも「天王立ち」など、現在も使われる曲名が記されているが、長い歳月をかけて、次第に、曲目数を増やし、歌舞伎の演出に厚みを加えてきたのである。現在、これらを覚えるために相当な修行が必要であることもこの曲目数から理解できる。作品に曲を付けていく作業は、作品そのものの出来不出来に大きな影響を及ぼすため、いわば現在の演出家以上に、芝居をよく理解している必要がある。この音楽の演出プランナーを「付師」といい、歌舞伎上演にとって重要な役割を担っている。
囃子の演出プランつまり、囃子の台本を「附帳」という。歌舞伎の全体の台本には、ト書きや舞台書きがあって、そこにも囃子の指示が書かれている場合があるが、特別な場合を除いて、書込まれることは少ない。その理由は、この附帳が存在しているからで、演奏のキッカケと曲目、強弱を表現する用語が、きめ細かく書込まれている。
(参考)
景山正隆『歌舞伎音楽の研究』(1992年)
<下座音楽の使われる場所>
1、幕明き
2、人物の出・入り
3、人物の居直り
4、人物のせりふ
5、人物のしぐさ
6、人物の思入れ
7、見得
8、立回り
9、特定の場面
くり上げ、殺し、髪梳、物着
色模様、濡れ場、縁切り
せり上げ、せり下げ、押し戻し
宙乗り、だんまり
10、場面転換 とくに回舞台
11、幕切れ
12、幕外
<楽 器>
・弦楽器 三味線
・打楽器 小鼓、大鼓、太鼓、大太鼓
・管楽器 能管、篠笛
・補助的楽器 大拍子、双盤、当り鉦、本釣り、半鐘、鈴、銅鑼、チャッパ、オルゴール、など
・雑楽器 木魚、木琴、駅路、拍子木、四つ竹、びんざさら、チャルメラ、琴、尺八、羯鼓、など
<太鼓の効果音>
通り神楽、雨音、水音、浪音、さざ波、滝の音、雪音、雪おろし、雪崩、やまおろし、雷、ドロドロ、大ドロ、薄ドロ、時の太鼓、三つ太鼓、角力太鼓、神輿太鼓、など
(※演奏はこの中から一部)
<演奏曲>
●セリの合方
三味線・太鼓・大太鼓・能管・その他
時代物で、せり上げ、せり出しの時に使う。長唄の一節をとったものと、特に作曲したものがある。実際にはセリを使っていなくてもセリを想定している場面で演奏されることもある。「五山桐」の山門、「先代萩」の床下、「五郎」、など。
●助六の前弾き
歌舞伎では、かつて人物の登場時に、その性格を表現するのに、囃子を伴って一振り踊ってみせる場合が多かった。現在でも、花道で一旦止まり、名乗りの台詞や所作をしてから本舞台に移ることが多いが、その時に囃子を必要とする。歌舞伎十八番の「助六」の助六の出は、河東節によるものであるが、この出端の芸が残った古風な形である。今回は、長唄の「助六」の出の前弾きを演奏する。
●立回りの合方
殺し、捕り物、喧嘩などの場面は、歌舞伎では様式的に演じられ、決った型や見得を組合せて、動きを舞踊のようにし、美しさを強調する。下座だけでなく、ツケが用いられる。
・ドンタッポ
小鼓・篠笛・三味線・大太鼓
時代物の立回り。「在原系図」(蘭平物狂い)、「双巴級」の五右衛門の捕物の場面など。
●入りの鳴り物(幕外)
・飛び六法
能管、太鼓・大太鼓
幕外での六法を踏む引っ込みの鳴り物。六法とは、両足を同じ側の手を出しながら、交互に踏んで飛ぶように駆け込む荒々しい演技である。「菅原」の梅王丸、「勧進帳」の弁慶など。
<歌舞伎舞踊組曲>
●次第 大鼓・小鼓・能管
能で最初の登場人物で独唱、地謡が繰り返す形式を、能から取材した曲の場合に長唄が継承したもの。勧進帳の「旅の衣はすずかけの」の部分など。
●「元禄花見踊」から(前弾き)
原曲は、1878年、東京で新富座が新築された時に、その大切で初演された。上野の山の花見の景で、湯女、武士、若衆、などが登場する元禄風俗をうつした内容で、最後は元禄歌舞伎風に総踊りとなる。
●「吉原雀」から(踊り地)
1768年11月市村座初演。本外題は「教草吉原雀」。長唄の人気曲の一つ。鳥売の夫婦が吉原の色模様を語る内容で、前半の踊り地の部分を今回は演奏では組み込んでいる。
●猩々
1874年7月河原崎座が新築開場したときに初演。本外題は「寿二人猩々」。能の「猩々」から取材した作品で、松羽目物の一つ。猩々が二人出て相舞になる。
●勧進帳
1840年3月河原崎座初演。七代目市川団十郎が歌舞伎十八番の一つとして初演した。能の「安宅」から取入れた作品で、現代においても最も人気のある演目。
冒頭の次第、勧進帳の読み上げ、富樫と弁慶の山伏問答、折檻、義経弁慶のしんみりとした情愛、弁慶の延年の舞、幕外の飛び六法の引っ込みなど、多くの見どころと、とくに長唄の優れた曲調で観客を魅了する。
<儀式的囃子>
囃子方の役割は、演目中での音楽の演奏だけでなく、公演全体に必要な鳴り物も担当している。すなわち、芝居が上演されることを伝える櫓太鼓や一番太鼓、打ち出しなどの儀式・儀礼的な演奏もある。今回は、公演の前後に次のもの演奏していただく。
●着到 能管、太鼓、大太鼓
開幕30分ほど前に打つ囃子。「お多福来い来い、お多福来い来い」と打っている。
●打ち出し 大太鼓・拍子木
一日の公演の終演を知らせる囃子で、大太鼓による独奏で、狂言方による拍子木も被せる。最初、激しく、だんだんゆっくりになり「出てけ、出てけ」と打つ。別名「追い出し」とも。最後に太鼓の縁をカタカタカタと打つのは、劇場入り口の木戸(鼠木戸)を閉めて、鍵を掛ける音を摸したものという。
(赤間 亮)
明治35年(1902)組上絵に描かれた囃子方 国立音楽大学所蔵
<特別出演>
三味線 初代 中村壱太郎 (なかむら かずたろう)
屋号 成駒屋。定紋 寒雀の中に壱。
中村翫雀の長男。祖父は坂田藤十郎。母は吾妻流家元の吾妻徳弥。平成7年1月大阪・中座五代目中村翫雀・三代目中村扇雀襲名披露興行『嫗山姥』の一子公時で初代中村壱太郎を名のり初舞台。平成13年9月新橋演舞場『鏡獅子』の胡蝶を踊る。
平成14年11月国立劇場『仮名手本忠臣蔵』十一段目討入の茶道春斎。平成15年夏比叡山薪歌舞伎で『橋弁慶』の牛若丸。平成17年夏比叡山薪歌舞伎で『連獅子』の狂言師左近後に子獅子の精。同年10月歌舞伎座『心中天網島—河庄』丁稚三五郎。平成18年1月歌舞伎座坂田藤十郎襲名披露公演『伽羅先代萩』澄の江。同年7月松竹座藤十郎襲名披露公演『連獅子』狂言師左近後に仔獅子の精。同年8月国立劇場大劇場二世藤間勘祖十七回忌追善藤間会にて『土蜘蛛』源頼光。平成19年5月「近松座歌舞伎公演No.18」に『鏡獅子』小姓弥生後に獅子の精。同年7月松竹座『橋弁慶』牛若丸『身替座禅』侍女千枝『女殺油地獄』妹おかち。同年10月歌舞伎座『牡丹燈籠』女中お竹・酌婦お梅。平成20年3月歌舞伎座坂田藤十郎喜寿記念『京鹿子娘道成寺』の所化。同4月松竹座『妹背山婦女庭訓』入鹿妹橘姫『双蝶々曲輪日記』藤屋吾妻『於染久松色読販』髪結亀吉。平成20年7月比叡山薪歌舞伎に『藤戸』浜の女おうら、など。