伝統音楽の魅力を探る・レクチャーコンサート Vol.6
常磐津節はおもしろい
2010(平成22)年12月15日(水)
<ご挨拶>
本日はご来場いただきありがとうございます。
伝統音楽を継承していくため、一人でも多くの方にその魅力を知っていただきたいと開催してまいりました「日本の伝統音楽を探る レクチャーコンサート」も第5回の節目を越えて第6回を迎えることができました。これも、皆様方始め多くの関係者と、主旨に賛同いただいき社会貢献事業としてご共催をいただいてきました真如苑の、ご支持ご支援のお陰と深く感謝申し上げる次第です。
さて、昨年は義太夫節をご覧いただいたところですが、今回は同じ浄瑠璃の分野から常磐津節を取上げました。今回の構成・解説を担当いただきます竹内有一先生の解説に詳しいのですが、常磐津節は江戸歌舞伎とともに発展してきた芸能で江戸固有のものとの印象が強いのですが、京都と縁の深い芸能です。そして現在では関西の常磐津界は東京と並び大きな力をお持ちです。今回は、お話をいただく人間国宝の常磐津一巴太夫さんを始め関西の第一級の演奏家の方々にご協力をいだき、また構成にも工夫をいただいていますので、皆様にはご満足いただける舞台となることを確信しております。
さて、ちらし等でもお知らせしておりますがこの11月から、CSスカパー!歌舞伎チャンネルにおきまして、当会のレクチャーコンサートのうち「うたもの」の4公演を取上げて順次放映いただいています。一人でも多くの方に伝統音楽の魅力をしっていただきたいとの当会の主旨からして喜ばしいこととご報告をさせていただきます。
どうか、様々な場で伝統文化が盛んになってまいり、多くの方がその良さを楽しんでいただける時代となりますよう、皆様方のますますのご支援、ご協力をお願いしてご挨拶といたします。
それでは間もなく開演です。どうぞ、最後までゆっくりとお楽しみください。
京都和文華の会 代表 早川聞多
<プログラム>
Ⅰ・常磐津節について
竹内 有一
Ⅱ・演奏1 『子宝三番叟』
浄瑠璃 常磐津 一佐太夫
常磐津 都代太夫
常磐津 三代太夫
三味線 常磐津 都㐂蔵
常磐津 都史
上調子 常磐津 三之祐
Ⅲ・常磐津節の伝承と魅力
鼎談 常磐津 一巴太夫
権藤 芳一
竹内 有一
演奏 常磐津 都代太夫
常磐津 三代太夫
常磐津 都史
常磐津 三之祐
休 憩
Ⅳ・演奏2 『戻橋』
浄瑠璃 常磐津 一佐太夫
常磐津 都代太夫
常磐津 三代太夫
三味線 常磐津 都㐂蔵
常磐津 都史
上調子 常磐津 三之祐
司会 南端 玲子
<出演者>
<浄瑠璃>
常磐津 一佐太夫(ときわづ かずさだゆう)
昭和17年京都市中京区先斗町に生れる。昭和25年(1950)二世常磐津理喜蔵(初代豊後半中)に師事。同年12月、乗合船の上調子、大黒の浄瑠璃で初舞台。昭和30年(1955)半四郎の名を許され恩師の研究会に毎年出演。昭和48年(1973)四世家元宮薗千之、千愛に宮薗節を師事、千之会出演。昭和49年千宗太夫を許される。昭和53年(1978)四世常磐津文字兵衛に師事。昭和54年(1979)八世家元文字太夫師より、常磐津一佐太夫の名を許される。平成元年(1989)先斗町芸妓組合(鴨川学園)その他で指導。新橋演舞場(市川海老蔵丈歌舞伎で立語り)国立大劇場、文楽劇場、松竹座、歌舞伎座、南座等、主要劇場に出演。平成17年(2005)重要無形文化財常磐津節保持者認定。国指定重要無形文化保存会(常磐津節)保存会員。常磐津協会、関西常磐津協会正会員。
<三味線>
常磐津 都㐂蔵(ときわず ときぞう)
祖父母、父母、叔父達、叔母、すべて常磐津一筋という環境で生まれ育つ。昭和22年(1947)5才で初舞台、昭和30年先代家元より常磐津都㐂太夫を許される。昭和36年(1961)三味線方に転向、常磐津都㐂蔵と改名。人間国宝、常磐津菊三郎師に師事。東京歌舞伎座ほか、歌舞伎公演に出演。祖母が昭和3年に創立した常磐津都会を父より継承、毎年休みなく開催、本年で83年目となる。常磐津都㐂蔵研究会を昭和58年より先代家元をはじめ大先輩を迎え開催する。また芝居絵の「出語り図」を蒐集、学術面でも研究を重ねる。相愛大学、立命館大学、京都造形芸術大学に非常勤講師。国指定重要無形文化財(常磐津節)保存会理事。社団法人関西常磐津協会常務理事。NHK技能者育成会第17期卒業。
<解説>
常磐津節について
常磐津節は、浄瑠璃の一種目です。
浄瑠璃というと、人形芝居や歌舞伎で耳にする機会の多い、義太夫節が有名です。義太夫節が大坂で育まれ、上方・大阪を代表する浄瑠璃であったのに対し、常磐津節は江戸の人々によって育まれ、江戸・東京を代表する浄瑠璃の一つとして、二六〇余年にわたって親しまれてきました。
江戸歌舞伎の舞踊と音楽
常磐津節を育んだ場は、江戸歌舞伎でした。中村座・市村座など、江戸三座と呼ばれる官許の大劇場で興行された歌舞伎は、今日の映画やテレビドラマのように、老若男女問わず、人々の熱い関心と話題の中心にありました。
江戸歌舞伎の演目の中でもっとも人気が高かったのは、座頭級の役者が最後の幕で演じることが多かった、舞踊仕立ての芝居や変化舞踊(所作事)です。役者・狂言作者・地方(作曲・演奏者)が協力しあい、魅力的な舞踊曲を作りました。
その中心的な音楽は長唄でしたが、各種の浄瑠璃もしばしば用いられました。豪快な内容の演目には豪快な語り口の浄瑠璃を、繊細な内容の演目には繊細な表現に長けた浄瑠璃を、適宜使い分けました。
京都から江戸へ
一八世紀前半の江戸三座では、江戸節(半太夫節・河東節)・大薩摩節・一中節・宮古路節(豊後節)などの浄瑠璃が歌舞伎を彩っていました。
京都で生まれた一中節と宮古路節は、世話もの(現代劇)の心中など道行の場面の描写を得意とし、その流行に伴い江戸に進出しました。義太夫節を〈剛〉とすれば、一中節・宮古路節は、〈柔〉の浄瑠璃といえましょう。
江戸の人々は、一中節や宮古路節の描き出す、男女の人情の機微に触れ、その情緒豊かな語り口と節付けに魅了されました。中でも、宮古路節の宮古路豊後掾とその高弟宮古路文字太夫の影響は絶大でした。彼らのファッション(髪型や服装)までもが江戸の人々の心を捉え、流行が加熱しすぎたために、宮古路節の禁令が出るほどでした。
常磐津旗揚げ
―初世文字太夫の功績―
豊後掾とともに江戸に下り、一七三六年頃からタテ語りとして頭角を現したのが宮古路文字太夫、のちの常磐津文字太夫(初世、一七〇九―八一)です。
京都寺町通りの位牌屋に生まれた文字太夫は、京都へ帰った師を離れ江戸に残り、やがて新たな活動を始める決意を固めます。京都を意味する宮古路という姓を改め、延享四年(一七四七)、常磐津節を旗揚げしました。
文字太夫と同門のライバルがしのぎを削る中、文字太夫は継続的に江戸三座に出演し、常磐津という新しい看板を、江戸歌舞伎との関わりの中で定着させることに成功します。
「芝居の所作 出語りといへば いつも常磐津文字太夫とて 男もよく声もよく上手にて いつも其狂言当りたり」(『賎のをだ巻』一八〇二年)。つまり、ドラマの主題歌を美声のイケメン歌手が歌うとドラマが大ヒットする、という昨今の構図の先駆者といえましょう。
初世文字太夫は多くの門弟を育て、次の世代から幕末へ、そして近現代へ、常磐津という看板と芸脈を伝える流祖として、多大な功績を残しました。
常磐津節の特徴
―初世文字太夫から継承されたもの―
初世文字太夫が成功した要因として、次の四点が指摘できます。これらの要点は、後世の担い手たちによって常磐津節のあるべき姿、基本的特徴として大切に継承されてきました。
1 しっかりした語り口
「ほり出しの大吉。じやうぶなかたり口」(役者評判記『筆顔見世鸚鵡硯』)という初世文字太夫に対する当時の評価は、浄瑠璃語りの重要な資質といえます。現在の歌舞伎の出語りでも必要な要件です。
2 豊かで幅広い表現力
初世文字太夫は、繊細な表現を得意とした一中節・宮古路節の〈柔〉の長所を生かしながら、江戸の豪放な気風を加味し、変化に富んだ味わい深い語り口と節付けを工夫しました。壕越二三治等の優れた作詞者、佐々木市蔵・岸澤古式部という作曲・演奏に秀でた三味線方と提携したことも、表現力と音楽性を高めました。
3 演目内容の多様性
前述のような豊かな表現力を生かし、時代ものから世話ものまで、江戸歌舞伎の様々な趣向の作品に柔軟に対応しました。宮古路節からの継承曲のほか、すぐれた他流(とくに義太夫節)の曲や詞章も借用し、独自の稽古浄瑠璃や祝儀曲も多数発表して、演目の幅を拡大しました。初世以後も蓄積を重ね、古風な語りものをはじめ、軽妙な舞踊曲、繊細な人情を語り分ける作品、美しい情景をうたった曲など、多彩な演目が伝承されています。
4 愛好者の育成や伝承への尽力
他流でも同様ですが、江戸三座出演時に、役者絵を扉に配した浄瑠璃正本(詞章本)を刊行し、観客や幕内にアピールしました。また、次々に作られた劇場初演曲の多くを稽古浄瑠璃として普及させました。その際、役者のセリフを版刻した浄瑠璃稽古本を出版し、セリフと浄瑠璃をあわせて稽古することで、江戸歌舞伎を浄瑠璃で語って演じる楽しみを広げました。
時代と作品
【初期】 初世文字太夫の時代には、道成寺道行の《駒鳥恋の関札》、今日でもその改作が上演される舞踊劇《蜘蛛の糸》、流儀でもっとも大切にされている祝儀曲《老松》等があります。
【中期 】 天明から寛政期、初世の高弟の兼太夫(のちの二世文字太夫、一七三一―九九)の時代には、《関の扉》《古山姥》《戻駕》《双面》等、常磐津節を代表する華やかな大作が多数作られました。
【後期】 文化・文政期から幕末にかけては、舞踊の名手が多数輩出し、商人・芸人など日常的人物と歴史的人物を効果的に組み合わせてみせる舞踊曲が多数作られました(《源太》《景清》《角兵衛》《粟餅》《屋敷娘》《乗合船》等)。また、古い物語や文学・伝説等を脚色した長編の作品として、《靱猿》《宗清》《将門》《三世相》等があります。《娘道成寺》《千本桜》《忠臣蔵》等の道行の部分も、常磐津で上演される習慣がありました。この時期の中心的な人物は、四世文字太夫(一八〇四―六二)と五世岸澤式佐(一八〇六―六六)。両名が文政後期から幕末期の常磐津曲の大半を作りました。
【近代】 明治以降の名作は《釣女》《戻橋》《紅葉狩》《お夏》等。一時家元を継いだ常磐津林中ら名人が輩出し、歌舞伎との関係も従来通り継承されました。
なお、常磐津から富本が派生し、富本から分派して清元が生まれました。江戸三座で活躍したこの三つを豊後三流といい、豊後系浄瑠璃、豊後節とも呼びます。かつて上方で伝承された薗八節(宮薗節)や、江戸の新内節も、宮古路節系統の浄瑠璃(豊後系浄瑠璃)です。
常磐津の現在
江戸時代から現在まで、常磐津と岸澤の両家元が、流儀の統率と師範授与(名取り)の認定を行っています。
職業者団体としては、東京に常磐津協会、大阪に(社)関西常磐津協会があり、定期演奏会やホームページを運営し、技芸の発展や社会的貢献に努めています。重要無形文化財保持者によって構成される常磐津節保存会も、演奏会や講習会を主催しています。
門弟の養成や師範授与(名取り)は、師弟関係を踏まえて行われますが、歌舞伎など舞台へ出演する際は、タテをつとめる有力な演奏者がその都度グループ(連中)を作り、演奏表現を含めた統率力を発揮します。
<演 奏>
《子宝三番叟》
―問答の妙と四季を古色で味わう―
【解説】
江戸歌舞伎では古来、能の《式三番》を移して、顔見世興行やこけら落としで上演する習慣がありました。その儀式性、祝儀性にあやかろうとしたのでしょう。やがて、さまざまな趣向を凝らした改作(三番叟もの)が作られるようになりました。
能《式三番》は、千歳・翁・三番叟の三役が出て順に舞うものです。その千歳と三番叟の問答のくだりを、本曲では、大尽と太郎冠者による狂言風に仕立てています。前半は十二人の名付け問答のおかしみ(「火打ち袋〜」は子供が腰にまとわりつく様子)、後半は四季折々の子供の遊びを綴り、祝言で結びます。
天明七年(一七八七)二月、両国の料亭万八楼での初世文字太夫追善・二世文字太夫襲名披露時の上演記録(東京芸大蔵『常磐種』)があり、これが初演とされますが、宝暦初期頃までには稽古本が出版されていたと推定されるので、初世文字太夫時代の開曲と思われます。作詞者は不詳。のちに振り付けされ、舞踊曲としても上演されます。
【詞章】
【問答】おおさえおおさえ 喜びありや喜びありや わが喜びをこの所よりほかへは やらじと思う
「ハアハハ まかり出でたる者は 八幡大尽です 太郎冠者あるか」
「ハア御前に」
「念のう早かった」
「太郎冠者と召さるるゆえ ずいぶん物に心得 まかり立って候」
「太郎冠者に尋ねたき事あり 身は福人と見え候か また徳人と見え候か」
「ドリャドリャハア 頼うだる方は あっぱれ福人と見請け候」
「ヤレヤレ目利きかな目利きかな エエ身どもこそ福者にてあれ その中にも子福者にて 子供十二人持ち候 上六人は瑠璃のようなる女子にて 下六人は玉のようなる男子々にて候 その十二人の子供らを車座にぐるりっと直し置き 一度に呼ぶように名を付け候」
「げにげにめでたき御ことかな してその御名は何と御付け候ぞ」
「まつ おつ とり ちがい おとよ けさよ たつ松 いる松 だんだら いなごに かいつく ひっつく 火打ち袋ぶらぶらと 付けてあれ」
「さてさて珍しき御名にて候」
「さればこの十二人の子供らが 四季の遊びのおもしろさ」
「それはめでたき御楽しみ その若子たちの御遊び ここにてまなび御見せ候へ」
「なかなか易き御こと(中略)心得申して候」
幟兜の勇ましく しょうぶ打ち合うなりふりの 猛きは尚もいさぎよく 隙ゆく駒の竹の尾に 鞭をくれない手綱かい繰り りんりんりん(中略)
【秋・冬/段切れ】 その着せ綿の菊がさね 香る袖垣仲もよく火焚け祭りの〈引取〉とりどりに 花を飾りし〈江戸サハリ〉裲襠匂う うぶ神詣で黒髪に 置く白雪の降れや積もれや 積もれや降れや 招くや年の貢ぎ物 絶えずかわらぬわらんべの 〈クリ上〉竹馬遊びの 千代かけて 千代に八千代にさざれ石の 動かぬ御代こそ めでたけれ
<演 奏>
《戻橋》
―物語の展開と表現の魅力―
【解説】
悪鬼が人を浚うという噂で人の往来がない洛中の夜。渡辺綱(九五三―一〇二五)は、主君源頼光の恋の相手への使いから帰る夜道、一条戻橋あたりで、美しい女に出会います。川面に映った女の姿に不審を抱きつつ、素知らぬふりで同行。女は綱への思いを語って油断を誘います。さてどんな結末が待っているのでしょうか?
一六八一年頃成立の軍記『前太平記』巻一七にある説話を河竹黙阿弥が脚色、明治二二年(一八八九)に日本演劇協会での素浄瑠璃として作られました。作曲は六世岸澤式佐。翌年、歌舞伎座で五世尾上菊五郎(小百合実は鬼女)、市川左団次(綱)が初演。再演時の本名題は《戻橋恋の角文字》。尾上家の「新古演劇十種」の一つとなり、先に作られた長唄舞踊《茨木》は本曲の後日譚です。
【詞章】
【置き】
∿それ普天の下 率土(そっと)の浜(ひん) 王土にあらぬ所なきに 何処に妖魔の住みけるか 睦月の頃より洛中へ 悪鬼顕われ人を取り 夜は往来の人もなし(中略)
【綱の出端】
∿今日しも渡辺源次綱 使いに立ちし帰り道 卯の花咲いて白々と 月照り渡る堀川の早瀬の流れ落ち合うて 水音凄き ヒロイ 戻橋
綱「武威逞しき我が君も 恋は心の外にして かねがね語らい給いたる維仲(これなか)卿(きょう)の姫君へ 密々の仰せ蒙りて 路次の用意に御秘蔵の 髭切の太刀賜わりしは 武門の誉れ身の面目 片時も早く立ち帰り 彼の御方の御返事を 我が君へ申し上げん」
∿夜更けぬ内と主従が 行かんとなせし後より 一吹き落とす青嵐に 岸の柳の騒がしく 心ならねば振り返り
綱「ハテ心得ぬ 妖怪出づる取沙汰に 夜に入りては表を閉ざし 男子すら通行せぬに 女子の来たるは訝しし」
∿さては我らを脅さんと 姿をかえて妖怪が ここへ来たると覚えたり 幸いなるかな討ち取って
綱「君へ土産に参らせん」
∿二人の者に打ち囁き 機密を授け トマリ 退けて
綱「おのれ妖怪 御参(ごさん)なれ」
∿太刀引きそばめ仄暗き 木下蔭へぞ トマリ 入りにける
【女の出端】
∿また叢立ちし雨雲の 影洩る月をよすがにて(三下り)辿る大路に人影も 灯影も見えず我が影も もしや人かと驚きて 被衣に身をば忍ぶ摺り 狭布の細布ならずして 女子心に胸あわず 思い悩みて来たりける(中略)
∿綱は小蔭を立ち出でて
綱「女性はいずれへ参られるぞ」
女「わらわは一条の大宮より 五条のわたりへ参りまするが 只一人ゆえ夜道が怖く ここに佇み居りました」
綱「怖いと申すはもっともなり 五条のわたりへ参るとあらば それがし送って遣わそう」
女「御ことばに従いますれば お伴い下さりませ」
∿折から空の雲吹晴れて 月の光に 見かわす顔
綱「ハテ あでやかな」
∿水にうつりし 影を見て
綱「ヤヤ 今水中にうつりし影は」
女「エエ」
綱「夜更けぬうちに イザ疾く疾く」
【道行】
∿西へ廻りし月の輪に 遠く望めば愛宕山 北野は近く清滝の 森を越え来るほととぎす 初音床しく振り返り 見上ぐる顔に アタリ はらはらと 樹々の雫も雲運ぶ 雨かとしばし トマリ 立ち休らい(中略)
綱「都人とは言いながら いとも優しきなり風俗 御身が父は何人なるぞ」
女「父は五条の扇折 舞を好みて舞いしゆえ わらわも幼き頃よりして 教えを受けしが身の徳に この程までもある御所に お宮仕えをいたしました(中略) 定めてあなたは奥様をお持ちなされてで ござりましょうな」
【クドキ】
∿お情深きお心に 今宵まみえし わらわさえ 縁を結ぶ露もがな 思う恋路の オトシ 初蛍(中略) 袖も濡れにし トマリ ことならん
綱「それは御身の思い違い かかる名もなき田舎武士 誰が思いを掛けようぞ」
女「いえいえ立派なお名ゆえに」
綱「なに 立派な名とは」
女「当時内裏を警衛に 都へ登りし源の頼光朝臣の御内にて 渡辺源次綱殿ゆえ」
綱「ヤ いかがいたしてその名をば」
女「恋しく思う殿御ゆえ 疾くより存じておりまする」
綱「恋しく思うと言うは偽り 御身が我が名を存ぜしは 妖魔の術であろうがな」
∿星を指されて打ち驚き(中略)
綱「汝は心付かざりしが 月の光に映りたる 影は怪しき鬼形なりしぞ」
女「ヤア」
綱「その本性を顕わせよ」
【見顕し】
∿言うに妖女もたちまちに 忿(ふん)怒(ぬ)の相を顕わせば後に窺う郎党が 観念せよと組み付くを ことともなさず振り払い
∿我は愛宕の山奥に 幾年住みて天然と業通得たる悪鬼なり
∿車輪の如き目を見開き 炎を吐きし有りさまは 身の毛もよだつ
トマリ ばかりなり
綱「さてこそ悪鬼で ありしよな」
女「イデこの上は汝をば 我が隠れ家へ 連れ行かん」
綱「小癩なことを」
【段切れ(対決)】
∿引っ立て行かんと立ち掛かれば 綱は生け捕りくれんずと 勇力ふるう時しもあれ
∿一天俄に掻き曇り 震動なして四方より 黒雲覆い重なりて 綱が襟髪むんずとつかみ
∿砂石を飛ばす暴風に 連れて虚空へ引き上ぐれば 髭切の太刀 抜き放し 鬼の腕を斬り払い どうと落ちたる北野の廻廊 悪鬼は叢がる雲隠れ 光を放ちて
失せにけり
歌舞伎舞踊曲の一般的な構成
【文献】
竹内有一「『老の戯言』の所収曲をめぐって」『楽劇学』第七号、二〇〇〇年
竹内有一「初世文字太夫正本の刊行と曲節譜」『日本伝統音楽研究』第三号、二〇〇六年
竹内有一「豊後三流の曲節譜(一)―研究の序説と資料―」『日本伝統音楽研究』第二号、二〇〇五年
竹内有一「ぶたい:幕内から見る関西の江戸音曲」『楽劇学』第一五号、二〇〇八年
竹内有一「劇場空間」『日本の伝統音楽を伝える価値』二〇〇八年、京都市立芸術大学
竹内有一編『詞章本の世界』二〇〇八年、京都市立芸術大学
竹内道敬「常磐津節」『日本音楽大事典』一九八九年、平凡社
安田文吉『常磐津節の基礎的研究』一九九二年、和泉書院
平野英俊・鈴木英一編『日本舞踊曲集成 歌舞伎舞踊編』二〇〇四年、演劇出版社
常磐津一巴太夫『歌舞伎一期一会』二〇〇九年、NTT出版
竹内 有一
<資 料>
常磐津 一巴太夫 経歴
昭和5年(1930)京都・祇園で生まれる
昭和11年(1936)観世流・謡曲仕舞を始める、昭和18年(1943)まで
昭和18年(1943)烏丸商業学校入学
昭和19年(1944)青吟歌舞伎研究会にて「神豊矢口渡し」「鈴ヶ森」を演じる
以下毎年「伊勢音頭恋寝刃」「仮名手本忠臣蔵七段目」「夏祭浪花鑑」を昭和22年(1947)まで演じる。
昭和23年(1048)河北印刷株式会社に入社、5月常磐津文字一朗師に入門
昭和26年(1951)京都に稽古場が出来る
昭和27年(1952)名取式 一巴太夫になる
昭和29年(1954)9月河北印刷株式会社退社。11月大阪中座「寿靱猿」歌舞伎初舞台
昭和36年(1961)師籍10周年記念公演(祇園会館)第1回一門公演
昭和41年(1966)第2回一門公演(シルクホール)
昭和42年(1967)大阪朝日座「身替座禅」「四谷怪談」初のタテ語り
昭和46年(1971)師籍20周年記念公演(京都府立文化芸術会館)第3回一門公演。大阪に稽古場が出来る
昭和47年(1972)名古屋に稽古場が出来る
昭和48年(1973)第2回グリーンリボン賞受賞
昭和51年(1976)第4回一門公演(京都府立文化芸術会館)
昭和53年(1978)東京歌舞伎座「廓文章」に出演 東京に稽古場が出来る
昭和56年(1981)常磐津節 重要無形文化財総合指定、常磐津節保存会会員となる。第5回一門公演(京都府立文化芸術会館)
昭和58年(1083)名古屋10周年記念公演(愛知県中小企業センター講堂)。イタリア公演
昭和61年(1986)第6回一門公演(京都府立文化芸術会館)
平成3年(1991)松尾芸能賞受賞 。常磐津一巴太夫の会 第7回一門公演(国立文楽劇場)
平成4年(1992)第1回三世相錦繍文章リサイタル(有楽町朝日ホール)、大阪府民劇場賞受賞
平成6年(1994)第2回三世相錦繍文章リサイタル(有楽町朝日ホール)
平成7年(1995)重要無形文化財常磐津節浄瑠璃保存者(人間国宝)認定、京都府文化賞功労賞受賞、滋賀県文化賞受賞、大津市文化特別賞受賞
平成8年(1996)第3回三世相錦繍文章リサイタル(紀尾井小ホール)
平成9年(1997)常磐津一巴太夫の会 第8回一門公演(国立文楽劇場)
平成10年(1998)第4回三世相錦繍文章リサイタル(紀尾井小ホール)
平成11年(1999)京都市文化功労者の指定を受ける
平成12年(2000)第5回三世相錦繍文章リサイタル(紀尾井小ホール)。勲四等旭日小授賞の叙勲を受ける
昭和14年(2002)常磐津一巴太夫の会 第9回一門公演(国立文楽劇場)
昭和15年(2003)国際アカデミー賞受賞 平成15年度(第58回)芸術祭レコード部門芸術祭大賞受賞
昭和16年(2004)芸術祭レコード部門大賞受賞記念 人間国宝常磐津一巴太夫の会(紀尾井ホール)
昭和17年(2005)世界文化大賞受賞
平成19年(2007)シンガポール公演 歌舞伎パリオペラ座公演
平成21年(2009)常磐津一巴太夫の会 第10回一門公演(国立文学劇場)
平成22年(2010)古典芸能を楽しむ会 第1回一期一会常磐津の魅力(対談と演奏)大阪歴史博物館